映画『メッセージ』感想

 

 

 映画を聴く、というのは初めての体験であった。

 この『メッセージ』という作品が「音」を重視した映画になるであろうことを、私は(というか原作であるテッド・チャンの短編小説『あなたの人生の物語』を読んだことがある人なら)観る前からある程度予想していたはずである。

 それにも関わらず私は開幕10秒でうろたえてしまった。提供各社の字幕が消え、暗転した画面に目を凝らしていると、うっすらと見えてくるストライプ模様。徐々にカメラが下がり、それが何処か薄暗い部屋の天井の模様であったことが判明する。このワンカットだけで私は自分の心構えが不十分であったことを悟る。

 ああ、この映画、想像以上に「映像」を削ってきたぞ。と。

 

 この映画が映像をないがしろにしている、と言いたいのではない。それどころかかなり映像に力を入れている。ただし、その「拘り」は観客が「映像を凝視しすぎないように」という通常とは真逆の配慮に目一杯舵を切ってるとしか思えないのだ。

 何の先入観もなくこの映画を観た人は、どうも見辛い映画だと感じなかっただろうか。全編通して不自然なまでに明度の暗いシーンばかりで、背景にピンボケが多く、人物達にスポットを当てているシーンでもなかなか目の焦点が合わない。早い段階で「映像に目を奪われるな」という監督からの「メッセージ」を受け取れなかった人にとっては、かなり苦しい二時間になってしまったのではないかと憂慮してしまうほどに。

 では「映像」から注意を逸してまで観客に訴えかけたかったものは何か。無論、映画をいうメディアが持つもう一つの要素、「音」である。

 BGM、会話音声、ヘリの羽音、警報、スマホの着信音、リフトの稼働音、ニュースや動画サイトの音声、そしてヘプタポッドの声、今ひとつ不明瞭な映像とは対象的に、それらの音は「耳につく」一歩手前といってもいいほどハッキリ耳に流れて込んでくる。

 ヘプタポッドと対峙する殻の中に、籠に入れられた小鳥が持ち込まれていた理由は何か。原作にあのような小鳥は登場しないし、映画の物語上においても、その役割は判然としない。

 こうは考えられないか。「未知との遭遇」であるあのシーンは、彼らのインパクトあるその姿にどうしても目が奪われがちになる。そんな重要な場面で、あの場違いな小鳥がピーチク喚くわけである。

「音を聞け」と。

 

 何故それほどまでにこの映画が音に拘り、聴かせたがっているのか。その解釈にはやはり原作小説を持ち出してくる必要があるだろう。例によって躊躇なくネタバレで語るので、原作未読、映画未視聴の方は鑑賞後に読んでいただければ幸いである。

 

 SFファンなら知らない人はいない、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』という短編小説はどのような小説だったか。簡単に言えば異星人から未知の言語を学んだ言語学者がその人生観を一変させられる話なのだが、注目すべきは彼らの言語の性質とモノの考え方だ。

 ヘプタポッドが「話し言葉」と「書き言葉」で全く異なる言語を使っていることは映画版でも説明されているが、原作小説ではさらに踏み込んで、話し言葉を「ヘプタポッドA」書き言葉を「ヘプタポッドB」と呼称し、より詳細な分析が試みられている。

 話し言葉である「ヘプタポッドA」は彼らにとってあまり重要ではない。何故かと言うと「発声」によってなされるその会話は、どうしても彼らの思考方法とはミスマッチだからだ。

 彼らが扱う書き言葉「ヘプタポッドB」は文字を一つずつ順番に並べて単語や文章を作るわけではない。例えば「犬が歩く」という意味のことを書きたいのであれば「犬」「歩く」といった要素を一つの図形に含ませて、順番にではなく同時に描く。(正直、このあたりの細かい理解は私もいまひとつ自信がないので間違っていたら申し訳ない)

 このような言語を扱う彼らは、その思考方法や物理法則への理解もその言語の性質に縛られている。映画ではおそらく尺の都合で語られなかったのだろうが、小説版ではその分かりやすい例が語られる。「光の屈折」というは現象は誰でも見たことがあるだろうし、聞いたこともあるだろう。

 

 光がある角度で水面に達し、異なった角度でそのなかを進むという現象を考えてみよう。屈折率のちがいが原因となって光は方向を変えるといった言いかたで説明すれば、それは人類の見かたで世界を見ていることになる。光は目的地への旅程に要する時間を最小にするという言いかたで説明すれば、それはヘプタポッドの見かたで世界を見ていることになる。まったく異なる二とおりの解釈だ。

 

 ヘプタポッド達の言語には物事の順番や「因果」という概念がなく、故に思考も世界の見方もそれらに縛られない。人類がその言語によって逐次的認識様式を発達させたように、彼らは物事の順序を考慮しないその言語によって、同時的認識様式を発達させた。彼らの見方は「因果」ではなく「目的」に律せられており、物理現象をも「目的論的」に解釈しているわけだ。

 ヘプタポッド達は同時的認識、思考法をもって、人類が言うところの「過去」「現在」「未来」といったものを「同時に」知覚している。未来を正確に「予想」できるのではなく「知っている」のだ。そして彼らはただただ目的のために行動する。そこには「自由」や「束縛」といったものはない。それらは因果律的な概念だからである。彼らは劇中で最後まで純粋なまでに目的を遂行しているだけであった。

 物の考え方や、世界の見方は、扱う言語に縛られるという話は一般的であるし、映画でもこの『サピア=ウォーフの仮説』は語られている。では、上述のような特徴を持つ彼らヘプタポッドの言語を、もし地球人類が習得したらその人の世界の見方はどうなるのか? というのがこの物語の核心であり、その世界観を主人公ルイーズの語りを通して読者にも疑似体験させることがキモである。

 

 さて、そんな小説『あなたの人生の物語』だが、無理難題を承知で言えば、この小説は「ヘプタポッド語」で書かれていることが理想である。そうすれば我々読者も因果から解放された革新的な物語にふれることができ、さらには人生観をも大幅に変えさせられる人類史上の名作(怪作)になったであろう。

……当たり前だがそんなことは不可能であり、仮に書かれていたとしても読めないわけだが、この小説はどこまでも地球人類の言葉で書かれている。しかし、主人公ルイーズが得たヘプタポッド的世界認識をテッド・チャンは少しでも読者に共有させたかったに違いない。

 そこでとられた苦肉の策が、冒頭から随所に挿入される「回想らしきもの」だ。話を追っていけばこのランダムに挿まれた回想のようなシーンが実は「過去への回想」ではなく「実際に未来に意識が飛んでいる」ことを示していた描写であることが分かるわけだが、この表現により、彼女の認識とまではいかないまでも、読者はルイーズと同じ「困惑」を共有できる。時々現れるこの娘らしき少女は何なのか、と。

 しかし、これが「小説」という文字媒体の限界であろう。どこまでも「地球の書き言葉」でしか表現できない小説は、例えばヘプタポッドが発する声らしき音を「ずぶぬれになった犬が身をぶるっとやって体から水をふりはらおうとしているような音」と書いたところで、ルイーズの聞いた音が、もっと言えば作者の頭の中にあった音がそのまま読者には伝わってこないからだ。

(もっとも、こういった制約は小説の限界であると同時に深みにもなるわけだが)

 

 ようやく映画の話に戻る。私は映画というメディアが全ての面において小説に勝っているなどとはちっとも思わない。しかし、主人公の感じている世界を的確に伝えるという点においては、どうしても文字媒体の小説は遅れをとる。

 だからこそこの映画は音を聴かせようと必死なわけだ。通常、映画を観ていて画面をろくに見ていない、という人はあまりいないと思われる。しかし、音は油断していると聞き流してしまう。実は人間は目よりも耳からの多くの情報を得ている、と聞いたことがあるが、そうであるが故に「不要な情報」として処理される部分も大きい。

 小説でテッド・チャンが表現しきれなかった「ルイーズの認識世界」を、この映画は丁寧に表現しようと努力しているように感じた。背景にピンボケが多かったり、どこかカメラの焦点が合わなかったりするのも、単に映像から注意を逸らすというだけでなく、半端にヘプタポッド語を習得してしまった彼女の、現在と未来の間で揺れ動く朦朧とした意識の表現、と、受け取ることもできなくなくはない。

 ともかく、SF映画はその圧倒的な映像進化と共に歴史を刻んできたジャンルである。必然、観客の目はその映像美に奪われやすい。しかし、それだけで感動してもらってはルイーズになれないのだ。という製作者のメッセージが含まれているのかはわからないが、聴覚でもしっかり体験してもらうために映像を敢えて見辛くして音にバイアスをかけるという手法は、SF映画として単に「奇をてらう」という動機だけでは足りない程度に勇気ある試みだったはずである。

 上から目線で恐縮だが、私はこの点を評価したい。

 

 

 最後に、といってもまだ長くなるが、原作改変の部分について考えてみたい。

 小説を元にした映画の原作改変などよくあることだが、上述のように原作にある程度敬意を払っているように思われるこの映画が、大胆な改変を行っている箇所にはやはり何かしらの意図があるのではないかと思われる。

 まず、大きな変更点として気が付いたのはヘプタポッド達が宇宙船ごと地球に乗り込んできている点だ。原作では彼らの船は地球の惑星軌道上に留まっており、地球には「ルッキング・グラス」と呼ばれるモニターのようなものだけが送り込まれ、それを通じて人類との対話が図られている。(私の記憶が確かなら映画ではこの重要デバイスであるルッキング・グラスというワードすら出てこなかった)

 この点についてはまず、宇宙船ごと乗り込んできたほうが映像としてインパクトがある、という理由が挙げられるが、より重要なのはそれ以降の大きな改変のために必要だったからであろう。

 もう一つ気になったのはルイーズがヘプタポッド達と「直接」対峙したシーンだ。原作ではルッキング・グラスを通しての対話に終始していたが、そればかりではなく、原作では明かされなかった彼らの「目的」を聞き出すことに成功している。

 そして、おそらくこの映画最大の原作改変は「ヘプタポッド達が人類の目に脅威として映った」という点だ。原作既読の私が最も驚いたのもここである。原作の人類は、どこか呑気というか、あくまでも対話の窓口になっているルッキング・グラスの方に注意を向けていて、宇宙空間にある彼らの船をあまり気にかけていない印象だった。ラストシーンでも、人類が思わず引き止めてしまうほど彼らは何もせずあっさり帰っていく。

 しかし映画では、彼らを脅威と見なした国の行動を発端に、国家間での武力紛争にまで発展しかける。その危機を救うのがヘプタポッド語をある程度習得し、未来を知覚できるようになったルイーズである。

 未来の彼女はパーティ会場で中国の将校から電話番号を入手し、その番号を使って現在のルイーズが彼に電話をかけ、未来の彼から聞いた「彼の妻の最後の言葉」という合言葉をもとに彼を説得する。そのことに後々感謝した将校は、パーティ会場で電話番号と合言葉をルイーズに伝える。

(SFファンなら、これが一般的なSFの文脈でいうところの「輪廻の蛇」と呼ばれるタイムパラドックスであることにすぐに気がつくだろう。と、同時に彼女の場合はこれがパラドクスでもなんでもないことも悟るはずだ。彼女には認識にはもう過去も未来もないのだから。)

 

 これらの改変は是か否か。確かに原作小説にはある種のスリリングさが足りなかったし、彼ら地球にやってきた目的にも疑問が残った。だが、だからこそ、この作品は純粋に知的な邂逅として味のある物語だったともいえる。

 故に私はこれらの改変を映画的エンターテイメントとして仕方のないものという、否定的というよりは消極的肯定として受け取っていた。

 しかし観終わった後で「人生の物語」としては、こちらも「アリ」なのではないかという気がしている。

 

 主人公ルイーズは結果として、生粋の地球人であるが故に彼らの言語を完全にマスターすることは叶わない。しかし、よく言えば地球言語とヘプタポッド語のハイブリッド、悪く言うと半端な使い手になってしまった彼女は、もはや普通の人類のようにもヘプタポッドのようにも世界を認識できない唯一無二の孤独な存在になってしまう。

 彼女はヘプタポッド的認識をもって未来を知覚できてしまうが、人類的な因果律も捨てきれないが故に、意識は基本的に現在に縛られ続ける。

 彼女は選択しなければならない。自分の娘が若くして事故死してしまうという未来を知っていながら、彼女を生み、育てるのかという選択だ。劇中においてルイーズが娘を見つめるシーンのほとんどが複雑な表情であった理由もここにある。

 原作においてもやはり、彼女は娘を生む選択をする。そもそも彼女の娘は彼女の認識において「未来」に存在するわけではない。娘を生まない選択は「既にある」彼女の存在を抹消することを意味するのである。

 

 しかし改変された映画においては、彼女の選択が意味するものはそれだけにとどまらない。娘を生まないという選択をすることは既にある未来を破壊する行為であり「目的論的」なヘプタポッド的世界認識を放棄することに他ならない。

 すると、彼女は過去現在未来の同時認識をできなくなり、彼女は武力紛争を止める術も、止めたという事実も失うことになる。そしてその先にあるヘプタポッド達の目的「人類を救い、その人類にヘプタポッドを救ってもらう」をも放棄することになってしまう。

 こうして映画『メッセージ』における『あなたの人生の物語』は、原作よりも壮大な運命を背負わされるのであった。

 

 

 

 

 

 余談だが、この『メッセージ』という邦題、原題は『Arrival』だそうだ。

 意味は「到着」あるいは「新生児」 

 

 上手いもんだ。