アンドロイドの時間 『ヨコハマ買い出し紀行』

 

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ヨコハマ買い出し紀行 1 新装版 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 1 新装版 (アフタヌーンKC)

 

 

 月刊アフタヌーンにて94年から2006年までの12年に渡って連載されたこの漫画を、私が初めて読んだのは今から10年ほど前、連載が既に終わった後のことだった。

 どのような内容か簡単に紹介すると

 

 地球温暖化が進んで海面が上昇し続け、文明が衰退した世界で、細々と生き延びつつ滅びに向かう人間と、彼らと共存するアンドロイド達。主人公アルファもカフェを営むアンドロイドであり、旅に出たきり帰ってこない人間のオーナーを待ちながら、周囲の人々や他のアンドロイド達と緩やかに交流していく、という話。

 

 もともと私はこのような「ポスト・アポカリプス」つまり、人類あるいは文明が滅亡した後の世界を描いたSF作品はそれなりに好きなのだが、その半面、このジャンルに名作はそう多くはないとも感じていた。

 SF作品において世界観を作るという作業は最も重要かつ、大変な作業であるはずだ。新しいデバイスを考えれば、それが存在する前提の社会システムを考えなければならないし、未知の生物を描くなら、彼らの生態や文化を作り込まなければならない。

 だが、このポスト・アポカリプスというジャンルは設定すべき国家や社会、文化といったものが既になくなっているということもあって、その無秩序(アナーキー)さに甘えた作品が少なくないと感じている。より厳しく言うなら「そのテーマを描くのに世界が滅んでる必要ある?」と言いたくなるような、まるで世界観を作る煩わしさから逃げるために滅ぼしました、とばかりの作品がチラホラ見受けられるのである。

 

 決してこの作品もそうだ、と言っているわけではない。ただ、当時の私の感想は、どこか物寂しく読後感は良いが、設定の割には事件らしい事件も起こらなくて正直、退屈さが拭えないというものであった。

 そのような「いまひとつ」な感想を持っていたはずなのに、最近になって新装版のコミックの存在を知った私が、ほとんど衝動に近い形で全巻大人買いしてしまったのは、当時の私では上手く言葉に出来なかった心に残る何かがあったからだ。

 と、財布の紐に言い訳をしておく。

 

 改めて読んでみると、当時では読み取れなかった趣を発見する。それは単に私が歳をとったせいで、刺激的なドラマだけでなく情緒深い話も好むようになったからだ、と言えるかもしれないが、より大きな違いはフィクション作品における「ある要素」を、私が昔より強く意識するようになったからだ。

 読み方が少し変わったことで、当時はいまいち判然としなかった大きな疑問に、一つの答えを得ることができた。

 このエントリでは、その謎についてあくまで私個人の解釈を述べたい。

 

 すなわち

 

「最終話まで、ついにカフェのオーナーが姿を見せなかったのはなぜか」

 

 という疑問である。

 

 

 

 さて、繰り返すが、この作品は作中において大きな事件や山場と言えるような盛り上がりはない。しかし、文明が衰退し、社会や国家が機能しなくなったアナーキーな世界での暮らしが平穏ばかりであるはずがない。限られた食料や物資を奪い合う争いは必然的に起こるだろうし、そういった蛮行を取り締まれる権力も既に存在しないからだ。

 この作品はそのような統治を失った人間達の絶望や野蛮さを直接描くことはない。しかし、主人公アルファが大切にしている拳銃が、言わば「不穏のシンボル」として機能し、作中世界に影を落としていることを見れば、物騒なことが全く起こっていない世界でないことは推し量れるだろう。

 なぜそのような刺激的な側面を描かないのかと考えるに、そういった物語はこの作品のテーマにとって不純物になるからではないか。そのテーマとは、そして、私がフィクションに触れる際に昔よりも強く意識するようになった要素というのが、

「時間」である。

 

(「時間とは何か」という定義の話になると、このエントリで語るには余白が足りないし、そもそもマクタガードや入不二基義の本を数冊読んで囓った程度の、付け焼き刃な受け売りを披露しても仕方ないので、

 ここではとりあえず、それは「変化」だということで話を進める。)

 

 ポスト・アポカリプスものであると同時に、アンドロイド作品としてもタグ付けが可能な本作だが、主人公を含め、この作品世界におけるアンドロイド達はあまりにも人間臭い・・・・

 他のアンドロイド作品のように人間と敵対するわけでも、従属するわけでもなく、人間のような容姿で、人間のように思考し、感情豊で、物を食べ、怪我をすれば病院で手当てする。人間達からもアンドロイドは「個性」の一つとしか見られておらず、差別や畏怖の目で見られることもない。

 一見して「アンドロイドという設定は必要なのか?」と思えるほどほぼ人間な彼女達だからこそ、しかし人間との相違点である「歳をとらない」つまり「容姿が変化しない」という性質が際立つのだ。

 

 漫画、というかフィクション内における時間の流れ方は、大きく分けると三つのパターンがある。

 一つは俗に「サザエさん時空」と呼ばれる「一日内において時間は進むが、年単位で時間が流れない」ような作品。連載が何年続いても登場人物が歳をとらない。もう一つは「一日、一ヶ月、一年と大きくリズムを変えることなく時間を進める作品」これは例えば、高校一年生から卒業までを扱う学園漫画などが当てはまる。

 そしてSFなどに多い「急に数年、数十年、あるいは数千年といった時間が跳ぶ」作品。本作もこれに該当し、一話一話では日々のゆるゆるとした時間を描きながら、話と話の間で大きく時間が跳ぶ。

 主人公アルファを慕う少年は巻が進むごとに成長し、やがて彼女を見下ろすまでに背が伸びて声変わりし、よその町で仕事を見つけ、幼馴染と結婚して子供を作る。

 歳をとらない彼女はそういった人間の変化に憧れや寂寥感を覚えながらも「私はロボットで良かった」と日々カフェを営みながらオーナーを待ちつづける。人間とアンドロイドの時間の違いに複雑な思いを持った主人公を描いたSF、と一先ずはとることができる。

 

 主人公がアンドロイドでなければならない理由は当然ここにあるが、同時に文明が滅んでなければいけない理由さえもここにあるといえる。

 人類はその劇的な進歩を止めてしまっており、人類という種、そして彼らが激しく作り変えてきた世界は変化を止めてしまった(厳密には変化が極めて緩やかになった)。しかし、種としては時間の止まった人類も、その構成員である個々人には未だ昔と同じリズムで時間が流れ続けている。

 人間と共にあったはずのアンドロイドは、人間と一緒にではなく、世界(社会)の方と一緒に時間が止まっている。人間にとって、アンドロイドはこの世界の景色の一部のように映るのではないか。そのような孤独感を強めるために、この作中世界は滅んでいる(進歩を止めている)必要があったわけだ。

 

 ところが、彼女の感じているその「置いてけぼり」感は、ある意味で彼女の勘違いである。人にとってもアンドロイドにとっても、身体的な変化だけが時間の影響下にあるわけでも、それだけが時間の指標になるわけでもないからだ。

 作中に流れる数年の間に、アンドロイドであるアルファの精神面や他者との関係性は刻一刻と変化をする。変わりばえのない毎日の生活に変化を求めて長旅に出たのも、同じアンドロイドの女性に自分の暮らしが呑気だと言われて怒ったことも、間違いなく時間の影響下にある心境の変化からきている。

 成長した少女の姿を見て「早い、早すぎるよ」と一人涙を流すシーンは、一見アンドロイド特有の孤独感を描いたものに見えるが、実際それは人間の大人の感じる寂しさとほとんど同一種のものである。

(逆をいえば、子供の成長を肯定的に歓迎する一方で、自分の老いからは目を背けがちだという点において、人間の大人の時間感覚の方こそが、ある意味でこの世界のアンドロイド的である、と言えるのかもしれない)

 そもそも、巻を増すごとに「人間との時間の違いに寂しさを募らせるようになる」という心の変化そのものが、どうしようもなく人間の時間に影響を受けた変化なのだった。

 

 

 そして、このエントリの本題である「オーナーが帰ってこない理由」の解答とはズバリ、

 

 時間とともに強さを増す、彼女の待ち焦がれる・・・・・・という感情のためである。

 

 

 何かを待つ、待ち続けるという行為は時間の流れの中で成立する。故に人間であるオーナーは、この物語の初めから終わりに至るまで、彼女の最も重要な人間的時間の指標として機能する。物語上、そのような役割を与えられてしまった彼は、帰って来られない・・・・・・・・のだ。

 

 無論、これは私の勝手な解釈であり、作者としては単に姿を見せないほうが味わいがあるという程度の配慮なのかもしれない。

 しかし名作には「そうとも読める」という懐の深さが必要だと、私は考えている。

 

(ちなみに、最終回手前の139話において、アルファが空に向かってオーナーに語りかけるシーンは、オーナーが既に亡くなっている、あるいはアルファが彼の帰りを諦めている描写に見えなくもないが、どちらにせよ彼女の心境に変化を与えるものとなる。)

 

 

 

 それにしても、改めて読み終えて「惜しいことをした」という思いが募っている。

 多くの長期連載の漫画に言えることだが、この作品もご多分に漏れず、連載開始から終わるまでに、作画が大きく変化する。注目すべきは「容姿が変わらない」という作中での設定を持つが故に、アンドロイドであるアルファの絵柄が最も変化している・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・という点だ。

 90年代半ばに始まった連載当初は、やはり当時のOLのような、今見ると少し野暮ったい髪型で、仕草やリアクションもどこか古臭い。他の登場人物は髪型などに無頓着な老人や子供が多いため、外見上年頃の女性であるアルファの垢抜けっぷりが目立つ。また、人間である彼らの作画の変化は、作中における彼ら自身の「成長」や「老い」による変化と混ざり合って薄まってしまう。

 つまり「アンドロイドで」「若い女性」であるアルファは、その設定とは裏腹に、皮肉にも最も作画の変化を受けるタイプのキャラクターなのだ。

 

 私が惜しいことをしたと感じるのは、このようなメタな時間的変化をリアルタイムで追うことができなかったということだ。

 

 もし12年かけてこの作品を読めていたら、より一層味わい深い作品としてこの世界に浸れたであろうに。