『メアリと魔女の花』感想

 

 ポスト・ジブリとして期待されている(?)スタジオ・ポノックの初長編映画メアリと魔女の花』を観てきた。

 感想を述べる前に言っておきたいことが三つ、一つは私がこの映画の原作を未読だということ。もう一つは私がそれなりのスタジオジブリファンだということ。三つ目は相変わらずネタバレ全開の「観た後の人」用の感想だということだ。

 

 あまり事前情報を得ずに観てきた感想として、まず、一ファンタジー作品として観れば、それほど悪くはなかった。いや、正直に言えば開始30分くらいはもう席を立とうかと思うくらいがっかりしたのだが、中盤以降アクションが多くなってからはとりあえずスクリーンから目が離れない程度に見ごたえはあった。

 

 ただ、やはり苦言を呈したいところも多い。特に私が気になったのが主人公であるメアリに喋らせすぎ・・・・・だという点。

 私が最も好きな娯楽は小説なのだが、小説にはレティサンス(黙説法)と呼ばれる手法がある。小説における「描写」は言うまでもなく全て言葉(文字)によってなされるが、下手な人が書いた小説の描写はしばしば「説明過多」になりすぎる。

 受け手側はそれまでに描かれた情景や情報から常に色々なことを想像し、推察しているものだ。例えば登場人物がある光景を前にして抱いた感情などを逐一説明されずとも、自然と想像できてしまうのが上手い描写というもので、言葉で直接語られるより自分で思い浮かべた方がより読者は印象づけられる。

 

 同じようなことは映画にも言えるはずだ。映画は言葉だけで構成される小説よりも受け手に情報を伝える手段が豊富なのだから、それを全て主人公の口から説明させてしまうなんて勿体無い話である。 「猫の色が変わった」ことなんて誰でも観ていればわかるわけだ。

 極めつけはラストシーンでメアリが魔女の花を捨ててしまう際の、

「私にはもう必要ないから」(うろ覚え)という台詞

 スクリーンを観ながら「その台詞こそが必要ねーよ!」と心の中でツッコミを入れてしまった。あの場面、例えばメアリが晴れやかな中に僅かな名残惜しさを残すような表情で黙って花を投げ捨てていれば、数段奥ゆかしいラストシーンになったと思うのだが……。

 

 とはいえ、この「語らせない」という手法はやりすぎればただ難解で思わせぶりなだけの作者の自己満足になってしまうし、さじ加減がかなり難しいものではある。何より、これは子供も観る映画だということを考慮すれば「分かり易さ」というのも決してないがしろにできなかっただろう。過去のジブリの名作にも「なんでそれ言わせちゃうかなぁ」というシーンは少なからずあるので、あまりこの点でケチをつけるのも気の毒だとは思っている。

 

 そして、やはりジブリ作品の後継作としてこの映画を見ると、残念がら「劣化ジブリ」の悪評を覆すものではないように思えた。

 ジブリファンならすぐ気づくことだが、本作はキャラクターの表情から映像表現、カメラワークに至るまで、スタジオジブリが培ってきたあらゆる手法を露骨に踏襲している。

魔女の宅急便』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』など、過去のジブリ作品を彷彿とさせるシーンがいくつも登場し、ジブリファンへのサービスだと捉えることもできるのだが、表情の作り込みにせよ、空中での浮遊感の表現にせよ、宮﨑駿らほどそれらを使いこなせていない。

 魔法大学の世界観にしたって、『千と千尋の神隠し』のあの絶妙な異世界感と比較してしまうと、ただ面白そうなギミックをごちゃごちゃ配置しただけの(言い方は悪いが)散らかった部屋としか感じられない。これらがファンサービスを意図していたのだとしても、結果としてはジブリファンほど眉をひそめてしまうような出来だったと言わざるをえないし、ジブリに対してもリスペクトではなく、それらに頼り切っていると思われても致し方ないのではないか。

 

 などと、概ね残念な感想を抱いていたにも関わらず、エンディング後、私はそれほど暗澹たる気分でシアターを出たわけではなかった。

 何故かと言うと、この作品が他でもない『メアリと魔女の花』だったからである。これが他の作品であったなら、劇場に足を運んで1800円払う価値はなかっただろう。いや、なにも「アニメ映画としては未熟でも、物語自体が面白かったので救われた」というような話ではない。

 なぜ、この映画はこれほどまで露骨にジブリ作品へのオマージュに満ちているのか、そして、なぜスタジオ・ポノックの第一回長編作品としてこの『メアリと魔女の花』が選ばれたのだろうか、という疑問を考えるに、これがジブリへの「決別」として相応しい物語だったからではないか、としか思えないのである。

 

 この物語の主人公メアリは首尾一貫して「凡人」である。何をやっても失敗ばかりで迷惑ばかりかけている点を鑑みれば、凡人以下と言ってさえ差し支えない。頭が冴えるわけでもなければ、物語終盤で隠された力を発揮したりもしない。主人公たるに相応しい長所といえば、がんばり屋・・・・で、義理堅い・・・・ことくらいだろうか。

 そんな凡才のメアリがひょんなことから「魔女の花」を手に入れ、仮初の魔力を得て「才能ある魔法使い」だと勘違いされてしまうのが、この物語の導入部となるわけだが、

 この時点で、なぜこの作品が選ばれたのか察せられる程度にはあけすけ・・・・である。

 

 つまりは、日本のアニメーション界において宮崎高畑らが培ってきたジブリの表現力とブランドとは、まさに魔法、魔女の花であったわけだ。それらを踏襲して用いれば天才でなくとも(誰でも、とは勿論いかないが)良質な作品を作ることができた。

 この映画に対する「ジブリの力に頼りすぎ」「ジブリを意識しすぎ」といった批判は正鵠を射ているが、同時に思い切り外れてもいる。米林監督を始め、プロデューサー、制作陣がそのことに誰よりも自覚的だからこそ、この『メアリと魔女の花』という物語が選ばれたに違いないのだから。

 

 そしてこの映画は一目して分かるように、それはもう存分にその「仮初の魔力」を駆使して作られている。しかし「魔女の花」の魔力が人に扱いきれないものであったように、ジブリの技術もまた並の人間に扱えるものではないことが、やはりこの映画から推し量れてしまうのだった。

 

 それだけならば、これは単に「ジブリ」を引き継ぎたいだけの凡作に終わっただろう。

 だが、思い返して見て欲しい。

 メアリは結局、最後の魔法の花を使わなかった。なるほど、魔法などに頼らず自分本来の力でなんとかしてみせようという教訓めいた結末、それ自体なんら珍しいものではない。しかし、物語の文脈において、これは単に「魔法の力」を捨てただけで済まされる話ではないのだ。

 メアリの大叔母がかつて魔女であったという事実が明かされ、物語の重要人物となったその彼女から渡された「魔法の花の最後の一房」、これをメアリが受け取った時、ある程度類似の展開に慣れた人ならこう感じはしなかったか。

「さぁ、これをどんな土壇場で使ってくれるんだろう」と。

 しかし、予想に反し、これはあっさりと敵方に奪われ、取り戻した後も結局使用されることがなかった。

 

 いささか物騒な例えになってしまうが、フィクションに出てくる「拳銃」を思い起こしてみて欲しい。重要めいた人物から意味ありげに渡される拳銃、その弾倉に入った「最後の一発」の弾丸が、その後の展開で放たれないまま終わることなどあり得るだろうか。

 基本的に、物語においては「役割を持たないものは登場させてはならない」という約束事がある。俗に言うチェーホフの銃というやつだ。

 

 ではなぜ、そいうった物語の暗黙のルールに反するようなことをしてまで、この最後の一房は使用されなかったのか。そしてなぜ、使わずにとっておくこともせず、最後には捨ててしまったのか。

 それはもう、使われずに・・・・・捨てられること・・・・・・・こそが、この最後の花に与えれた役割だった、と捉える他ない。

 そして、そもそも主人公メアリがこの話の中で成したこと自体が、動物達にかけられた魔法を解き・・・・・、ピーターにかけられた魔女の花の魔法を解く・・・・・ことだったのであり、すなわちこの映画は「魔法を解いていく物語」だったわけだ。

 

 魔女の花(魔法)が「ジブリの力」のメタファーだという見方が正しいとすれば、これを「ジブリとの決別」以外の表現と捉えることができるだろうか。

 いや、仮に私の言ってることが全くの的外れであり、監督含め制作者達がジブリの力をごく無邪気に・・・・使用していたのだとしても、年端もいかない少女に「魔法なんて私には必要ない」と結論づけさせるような物語をしたり顔で作っておきながら、自分達は今後もジブリの魔法に頼り続けるなどという態度が許されるだろうか。

 そう考えると、この作品が過去作のオマージュ的手法に満ちていたのも、今作でその魔力を使い切ってしまいたかったという意図があったのではないか、と思えてならないし、スタッフロールに「感謝」と宮崎高畑鈴木の名前を出していたのも彼らへの別れの挨拶と捉えることもできる。

 また、先に私はラストシーンの「もう魔法は必要ないから」という台詞が蛇足だと述べたが、もしこれを敢えて・・・言わせた・・・・のだとすると、その意図を考え直さねばならないかもしれない。

 

 スタジオ・ポノックの「ポノック」とは「午前0時」を意味するクロアチア語であるそうだ。午前0時、つまり「新しい日の始まり」を意味する名前のスタジオを立ち上げておいて、昨日までと同じことを繰り返すような作品は作らないだろうと信じたいところである。

(ちなみにこれは後からついでに調べて知ったことだが、原作小説のタイトルは“The Little Broomstick”、日本では1975年に『小さな魔法のほうき』と邦訳されて出版されている。これを『メアリと魔女の花』というように「魔女の花」をピックアップするような改題をしたのにも、意図があったのかもしれない)

 

 と、まぁ、以上のような感想を得たからこそ、私は気落ちせずに劇場を後にできたのだ。今作の出来はあまり良くない、が、次回作には結構期待できるぞと。

 まぁ長々とこんなことを書いておいて、次回作以降も何一つ変わらずジブリ色全開だったなら普通に恥ずかしいわけだが、そのときはまたこのブログで糞味噌にけなす別の解釈を試みることにしよう。