温室栽培のラブコメ 『からかい上手の高木さん』

 

 

 巷で話題の『からかい上手の高木さん』というアニメを観たのだが、これが色んな意味でオッサンにはキツイ。

 

 微笑ましい、というのを通り越して観ていてこっ恥ずかしいのだが、この手の青春ラブコメは異性と全く関わりのなかった灰色の青春時代を過ごしてきた人よりも、むしろ微妙に近い体験をしたことがあるが結局その恋愛は上手くいかなかった、というような人の方が胸を抉られるのではないかと思った。

 

 まぁそれはさておき、私はそもそもラブコメというジャンルが得意ではないので、この作品が優れたラブコメなのかはちょっと判断がつかない。では何故この作品について書こうと思ったのかといえば、この作品に実に複雑な感情を抱いてしまったからだ。この作品自体の印象はいい。随所に丁寧な配慮が見られて好感が持てる。しかしこの作品がヒットしたその背景、つまり今の漫画アニメ界隈の土壌に考えを巡らせると、どうも明るい気分にはなれないのであった。

 

 このアニメの1話を観て少し驚いたことがある。

 それは最初のエピソード『消しゴム』において、この作品のヒロインである高木さんの、主人公への好意が視聴者に早々に明かされるという点だ。

 この作品の「語り」の特徴は、常に視点が主人公に寄り添っているという点だろう。小説でいえば「一元視点」的とでもいえばいいだろうか。分かり易く言えば、視聴者には主人公である西片くんの心の声しか聞こえず、ヒロイン高木さんの思考は届かないように語られている。無論このような構成自体は何ら珍しいものではない。

 かつて恋愛小説においては、多元視点、つまり視点が主人公と相手役の間で動いてはならないというのがセオリーだと主張する評論家もいた。主人公の恋愛対象となる相手方に視点が移ってしまうと、彼(彼女)の主人公への想いや言動の意図が読者に明かされてしまうため、恋愛の駆け引きやサスペンスを楽しむ余地が奪われてしまう。故に恋愛小説は一人称であれ三人称であれ、基本的に視点を主人公に固定した方が良いという理屈である。

 このセオリーがどこまで当てになるかはともかく、恋愛漫画においても主人公側の心の声しか描かない一元視点的な語りの大きなメリットは、ヒロインの考えや行動の意図が読めないところにあるとは言えるのではないか。

 

 だからこそ、一元視点的でありながら、第一話からヒロインの主人公への好意をハッキリ明示してしまうという手法にやや意表をつかれたわけである。

 ただ、繰り返すが、私はラブコメ、特に近年の作品についてはほとんど知識がないため、このような「ヒロインが初めから主人公に好意を寄せている」タイプの話が流行っているのかどうかは知らない。

 しかし、この初っ端からの好意の開示は一元視点的な語りの他にも「高木さん」というキャラクターの人物造形とも、ややチグハグな印象を受ける。

 主人公である西片くんは、素直で、年相応に女子との交流を恥ずかしがるようなごく普通の男子中学生だ。一方、ヒロインの高木さんの人となりは、この主人公と対称的な造形がなされている。年の割に大人びていて、ミステリアスは言い過ぎかもしれないが、ポーカーフェイスで感情や思考が読みにくい人物となっている。

 このような愚直な主人公と隙のないヒロインを描いた作品は、私の乏しい知識の中でもまぁ珍しくはないし、素人の私とて、この作品が「最初から好き合っている二人の微笑ましいやり取りを見守る」タイプのラブコメであるということは既に把握できている。

 ただ、それにしたって第一話の最初のエピソードから好意を明かしてしまうのは、この手のキャラクターの魅力を半減、とまでは言わないが、幾分か削いでしまうことにならないか、と。

 主人公に気があるのか、それとも思わせぶりなだけで本当にただ「からかっている」だけの小悪魔なのか、いずれはその好意を明かすにせよ、せっかくこのようなヒロインを用意したのなら、もう少し視聴者をやきもきさせても良さそうなものである。

 

 などと、ラブコメ素人の私でさえそのように考えるのだから、プロの漫画家である原作者やアニメスタッフが単なるミスでこのような構成にするはずがない。これには必ず何かしらの意図、あるいは事情があるはずだ。

 そして、この記事を書いている現時点で第6話まで観終えた私は、二つの観点からこの疑問に得心するに至った。

 

 まず、一つは主人公とヒロイン、この二人のパワーバランスにある。

 この作品は、だいたいどの話も基本的に同じパターンで展開される。主人公西片くんがヒロインである高木さんをからかおうと画策し、勝負を持ちかける。返り討ちに遭い、逆にからかわれる。照れる、悔しがる、終わり。

 高木さんは常に西片くんの思考の先をいき、彼の行動を読みきった対応するが、いくら西片くんが分かり易いとはいえ、彼女の読みとカンの鋭さはほとんどエスパーじみている。結果として主人公は常にヒロインの掌の上で踊らされているわけだが、敢えて物騒な表現をすれば、これはほとんど支配-被支配の関係にあるといって過言ではない。

 

 さらに、深刻なのは、彼らの年齢設定だ。

 中学生くらいのこの時期は、女性のほうが精神的に成長していることが多い。これは一般論でもあるし、私個人の経験則としてもおおよそそうだったと言える。

 それを踏まえて断言しよう。西片くんのような多感で繊細な年頃の、特にモテるわけでもないごく普通の健全な男子中学生が、クラスの可愛い女子生徒に毎日のようにちょっかいをかけられたらどうなるか。

 惚れる。間違いなく。これはもうほとんど物理現象や化学反応に近い再現性だと言っていい。大人になれば多少思慮深くもなり、警戒心もつき、何より異性の好みも細分化されていくが、中学生、この時期はダメである。同窓の可愛い女子に親しく接される、ただそれだけのことでよほど偏屈な男でない限り堕ちる。スキンシップなど伴おうものなら、抗う術は絶無である。いや、真面目な話だ。

(力説しているがこれは経験則ではない。断じて)

 

 何が言いたいかというと、高木さんに日課のようにからかわれている西片くんが、彼女に惚れるのは単に時間の問題であり、不可抗力的だということだ。そこに彼の意思が介入する余地はない。

 もし、他人の心を意のままに塗り替えてしまうような強制力を伴う行為を「暴力」と表現することが許されるなら、高木さんの彼に対する「からかい」は、感情面において暴力的ですらある。しかし、それが視聴者の目に乱暴に映らないのは、それが主人公の心を「人を好きになる」という正の方向へ動かすものであり、何より、ヒロイン高木さんがこの力を行使する動機が、彼への「アプローチ」のためというものであるから、という理由に他ならない。

 ここが重要となる。この作品の主人公とヒロイン、この二人の関係は、常にヒロインが精神的優位に立ち、主人公は思考を読まれ、彼女の傀儡のごとく行動を誘導される被支配的な立場にある。

 にも関わらず、その実相手への恋慕の情に自覚的で、いつもアプローチをかける立場に甘んじているのはヒロイン側なのである。「惚れた方の負け」「惚れた弱み」などと言うように、恋愛的な立場で言えば、実は主人公、西片くんの方が優位に立っている。

 

 このことから、高木さんが西片くんをからかうのは、彼へのアプローチであると同時に、そうして精神的優位を保つことで、彼が持つ恋愛的な優位性に抗わんとするためだ、という捉え方も可能となる。

 こういったパワーバランスの妙を楽しむためには、まずもって「高木さんの西片くんに対する好意」が視聴者に明示される必要があるというわけだ。これが高木さんの好意が早々に明かされた謎に対する、一つ目の解答。

 

 で、二つ目の理由だが、これは商業作品としてより重要なものになるだろう。

 それはこの作品の主たるテーマ「からかい」という行為にある。

 

 この作品が「微笑ましい」作品としてウケているのは、ヒロイン高木さんの「からかい」と、それに対する主人公西片くんの反応が「微笑ましい」からである。

 しかし、言うまでもなくこの「微笑ましさ」とは「からかう」という行為そのものに本来的に備わっている性質ではない。「からかう」という行為の本質、それは人を小馬鹿にし、時に相手の心、プライドを傷つけるリスクを伴ったコミュニケーションの冒険的な一手段だ。それは「イジり」や「虐め」との境界が極めて曖昧であるが故に常に攻撃性を秘め、その行使が許される条件は存外に緩いものではない。

 

 この作品における「からかい」が視聴者に「微笑ましいもの」として受け入れられるには、守られねばならない鉄則が二つある。

 まずこの「からかう」という行為が高木さんの悪意によってなされるものではないということ。そしてより重要なのは、それを受ける主人公西片くんが悔しがったり照れたりはしても、決して傷つけられてはいない、ということ。この二つが揃って初めて、それは受け手の目に「微笑ましく」映る。

 

上記の条件が満たされていることを認知できるのは、これがフィクション作品であり、我々が神の視点を持つ受け手だからである。現実においては「からかう側」の悪意の有無と「からかわれる側」の不快感の有無を互いが確認し合える状況はほとんどない。親しい間柄でそれが許されているように見えるのは「からかう側」の愛ゆえではなく「からかわれる側」の寛容さに寄る場合がほとんどである。相手が嫌がっていれば、やる側の愛は免罪符にならない。野暮な補足かもしれないが、一応、公序良俗のために記しておく)

 

 フィクション内での表現に厳しい人が増えた昨今、この条件を満たさずに商業作品として売り出すのは難しかったはずである。一昔前であれば、高木さんを底意地の悪いヒロインとして初期設定し、最初は主人公を遊びでたぶらかしていたが、そのうちにだんだんと本気で惹かれるようになっていく、というラブコメにもできただろう。

 今そういった話を書いても、悪女ヒロインはよほど魅力的に描けない限り売れないに違いない。とりわけ「イジり」や「虐め」といった行為に今世間は敏感になっている。そんな逆風の中で「からかい」というテーマで売り出すにはそれなりの覚悟と、入念な配慮を要したはずだ。

 高木さんというキャラクターの持つどこか妖しい魅力を多少損なう形にはなっても「からかい」という行為の暴力性、攻撃性を優先的に取り除く必要があった。それには高木さんの西片くんへの好意、そして西片くんのまんざらでもない反応、この二つの提示を欠くことができなかったというわけだ。

 これが二つ目の解答。

 

 二人のパワーバランスの可視化と「からかい」の攻撃性の排除、この二つの狙いのために『消しゴム』というエピソードを、第1話のトップバッターに持ってきたのである。

 では、なぜこのエピソードなのか。言うまでもない。このエピソードでは高木さんの西片くんへの好意が、思わせぶりな態度や言葉でほのめかされるのではなく「消しゴムに意中の相手の名前を・・・書く・・」という形でハッキリと示されるからである。

 

 

 というわけで、第1話からヒロインの主人公への好意が早々に明かされた謎については、私の中で解消されたので、もうこれ以上こんな甘ったるいアニメにはつきあってらんねーぜ、と視聴を止めるつもりでいたのだが……

 エンディングの懐メロカバーラッシュに心を掴まれて視聴を続けている内に(かつてジュディマリファンだった私は、5話のラストで『自転車』のイントロが流れてきた時、コーヒーを気管の方に流してしまった)実に色々な点で配慮がなされた作品だなぁ、と感じてしまったのである。

 ファンの方の感性を否定するつもりは一切ないが、私個人の感想として、正直なところ話自体はワンパターンであまりおもしろくはない。二人のやりとりをニヤニヤと見守るというコンセプトは理解していても、やはりむず痒さの方が勝ってしまう。

 何度も述べてるように、そもそも私はラブコメ自体が苦手なのであって、元よりこの作品の対象外の人間なのだから感想を述べること自体場違いなのだ。

 

 

 

 先に私は、この作品は「からかい」という行為の攻撃性を上手く排除している、というようなことを述べた。

 しかし、勘違いしてはならない。この作品は「からかい」という行為の攻撃性を取り・・除いた・・・のであって否定・・してはいない。つまり「からかい」を手放しで肯定的に描いてはいないということだ。それが本来持つ「攻撃性」そのものを否定してしまうと、この作品における「からかい」の「微笑ましさ」をも拭い去ってしまうことになる。

「からかう」という行為が「微笑ましく」なるのは、それが本来もっている「攻撃性」を排除した場合だ。このことは、逆にこう表現することもできる。

 

「からかう」という行為が本来的に攻撃性を秘めているからこそ・・・・(そうでない場合に)微笑ましく映るのだ、と。

 

 「美しいもの」の「美しさ」は「美しくないもの」の存在なしには認められず「優しい人」の「優しさ」は「優しくない人」の存在なしに感じ取れない。この世界の様々な概念は「そうでないもの」が支えている、という話。あまり適当なことを言ってると哲学に詳しい人からつっこまれそうなのでこの辺にしておく。

 

 つまり、注目すべきは「からかう」という行為の方ではなく「微笑ましい」という感情の方だ。この「微笑ましい」という感情は「微笑ましくないもの」の存在なしには感じ取ることができない。

 我々は「微笑ましくないからかい」つまり、それが悪意によってなされたり、された人間が傷つくような「からかい」を知っている。だからこそ、そうでない、攻撃性を有さない「からかい」を微笑ましく受け取ることが可能となる。

 このような操作は、ある行為がどのような場合に他者を傷つけ、それを見る第三者を不快にするか、ということを常に意識し続けなければ成し得ない。ある製品がもつ危険性を丁寧に取り除いて安全確認を繰り返すメーカーの苦労が、消費者には伝わることがないように、作品の暴力性を取り除いていく作業の苦悩も同様に、受け手には想像し難く、我々はそうして出来上がった「ほのぼのとした作品世界」だけを呑気に享受しがちである。

 そして、そうした苦労の末に生み出された近年の起伏に乏しい日常系作品は、一部の視聴者から「中身がない」と評されてしまうわけだ。それは確かに否定しきれないのだけど、気楽な内容の作品が気楽に作られているわけではない、ということだけは一人の受け手として理解しておきたいものである。

 

 この作品もまた「からかい」の攻撃性に限らず、受け手が不快になる恐れのある様々な要素を丁寧に排除している。

 例えば6話の「二人乗り」のエピソードでは、現実の道路交通法と照らし合わせた違反行為である自転車の二人乗りを、公道ではなく私道や空き地で行うというグレーラインの配慮がなされている。言うまでもないことだが、フィクション作品内で違法行為を描くことは、現実の法になんら触れることのない作家の自由な権利である。

 しかし、とりわけ日常系作品内において違反、違法行為を肯定的に描くことを許さないという人が増えた昨今、これがギリギリの妥協点だったということなのだろう。

(一昔前ならその場のテロップや番組の最後で「自転車の二人乗りは違反行為なのでやめましょう」とでも注意書きを添えておけば済んだことだと思うが……。)

 

  また、同エピソード内において、二人乗りが上手く行かない西片くんを焚き付けるため、高木さんが「前に乗せてくれた人はスイスイ漕いでたよ」とまるで過去に別の男に乗せてもらったことがあるようなことを仄めかすわけだが、それを引っ張ることなく、すぐさま「お父さんだよ」とネタバラししてしまう。

 これは、作品内では「西片くんをからかいたかったが、不必要に疑われたくはなかった」というような高木さんの心情や意図を汲むことができるやりとりだが、明らかに視聴者のヒロインへの心象に対する配慮でもあるわけだ。

 私の乏しい知識の中でも、ラブコメ、とりわけ男性向けのラブコメヒロインの恋愛は「初恋」であることがほとんどである。これは初恋の甘酸っぱさがどうのとかいう狙いよりも「ヒロインの過去に男の影がない」ということがより重視された設定に感じる。

 ネット上の意見を見ると、ヒロインの過去に男がいることを嫌う人はかなり多い、もしくはそういう人達の声がかなり大きいのは私の主観には留まらない一般的な認識だと思う。他人の価値観を否定するつもりはないので、それについてとやかくは書かないが、より率直な言い方をすればこのヒロインへの「処女性」に対する強固な拘りは、今日のラブコメというジャンルの大きな制約になってはいないかという危惧は感じる。

 

 悪い癖でまた話が逸れてるので本題に戻す。

 ともかく、この作品は主人公とヒロインがそれぞれ、からかったり悔しがったりすることはあっても、喧嘩や不和にまで発展することはないし、別のカップルは登場しても二人の恋路を邪魔するようなライバルキャラは出てこないし、どちらかが家庭に複雑な事情を抱えているというような凝った設定もない。

 受け手が一時的にでも不快感を覚えるような要素を慎重に見極めて取り除き、既存のラブコメに多用されてきた後の盛り上がりのための一時的な不安、不審、苛立ちといった恋愛のリアリティとスリリングを増すようなスパイスすらほとんど使わずに作り上げられた、実にマイルドなラブコメなわけだ。

 まるで冷たい外気や害虫から徹底的に守られた、温室栽培の野菜のような作品である。勘違いしないでほしいが、これはこの作品に対する皮肉ではない。世に数多くあるラブコメの中で、このような安心してほのぼのと観ていられるタイプのラブコメがあったっていいし、別に「不快な要素こそが恋愛成就のカタルシスに繋がるのだ!」などと力説するつもりもない。何より、温室栽培だろうが丁寧に作られた作物は美味い。

 

 私が皮肉ってやりたい気分になるのは、作品を温室で育てなければならないような、寒くて外敵の多い土壌、つまり昨今のアニメ漫画業界と消費者との関係についてだ。

 インターネット、特に掲示板やSNS、レビューサイトなどが発達して久しいが、昔と違ってフィクション作品に対する受け手の評価が直接的かつ迅速に、別の受け手、そして作り手に伝わるようになった。

 このことのメリットはもちろん小さくないが、デメリットも深刻だ。今の読者、視聴者は連載中、放映中の作品が自分の気に入らない展開になった際、すぐに批判の声を上げてしまう。私はこれを即座に受け手の質が落ちたと断じるつもりはないが、少なくとも環境の変化によってその声が拡散されてしまう時代にはなった。

 そうすると作り手としては後の展開のために受け手に一時的な不快感、不安感を与えるような負の要素や暗い展開を描き辛くなる。作家の矜持を持って、あるいはある種の鈍感さ故にそれを貫いたであろう作品の多くが、2chでスレッドが荒れ、Twitterで作者に攻撃的なリプが飛び、Amazonの低評価レビューが乱発するという憂き目にあっている。もちろん今でもそのような展開を描いて人気を博している作品は少なくないが、それは昔よりも商業的なリスクを伴うものになった。

 ここ十年ほどの日常系、ほのぼの系、百合作品ブームは、単にそこに需要があるという話で片付けられない潮流だと私は危惧する。決してそういった作品そのものが気に入らないわけではなく、作家が手を縮めて声の大きいファンが求めるものだけを描き、作品の幅を狭めてしまうような環境を受け手が作り上げてしまえば、結局は受け手自らが損をすると言いたいのだ。

 そして、そんな流れの中で出てきた、受け手に対する先読みの対処が行き渡ったほのぼのラブコメである『からかい上手の高木さん』は、その和やかな気持ちになれる内容とは裏腹に、この作品が生まれヒットした背景まで考えを巡らせるといささか憂鬱にもなる、といった複雑な所感を私に与えてくれたのであった。

 

 

 ただ、不思議とこの作品からはそういった作者の葛藤や窮屈さはあまり感じられない。受け手の需要に応え、忌避をかわしながら、それでも自分の描きたいものはしっかり描いている、というような好印象を受けるのも事実だ。

 実際にどうかは分からないが、もしそうであるならこの『からかい上手の高木さん』は、なんというか凄く現代的なプロフェッショナルが描いた作品なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 完全に余談かつ勝手な想像だが、ヒロイン高木さんのキャラの濃さに対比するかのように、割りと薄味の主人公である西片くん、彼は自身の恋愛感情を自覚してからこそ面白いキャラクターになるのではないか。

 今度は高木さんにアプローチをかける立場になり、きっとイタい言動を山ほど積み上げるだろう。若さゆえに。

 (経験則ではない。断じて。)