自動人形の城

 

 久々の更新、久々の小説レビュー。

 不定期とはいえ長いことサボっててすみません。

 

 

  言語学者である川添愛によって書かれた、この『自動人形の城』は、昨今何かと話題にのぼる人工知能が現在ぶつかっている壁を分かりやすく解説した、学習まんがならぬ学習小説である。副題にある通り、言葉の「意味」でなく「意図」の理解、我々ヒトが当たり前かつ無意識にできているそれが如何に高度なコミュニケーション能力の産物かということを丁寧に考察した小説なのだが、そればかりでなく、ファンタジーとしても(ややご都合主義な魔法は出てくるものの)起承転結から伏線の回収に至るまで大きな粗がない完成度の高い物語となっている。

 

 とある国の幼くわがままな王子ルーディメントは、自分の思い通りに動かない周囲の人間に愛想を尽かし、魔術師ドニエルと悪魔の契約を結んでしまう。それは、城中の人間をドニエルの所有する自動人形オートマトンとそっくり入れ替えてしまうというもの。この自動人形は所有者の言葉に忠実に動くが、言葉の「意味」しか読み取ることができず、命令の「意図」を理解しない。

 王子が「お腹がすいた」と言えば「私のお腹は、すいていません」と答え「頭をなでて」と言えば、王子ではなく自身の頭を撫で始める始末。このような無機質で融通の利かない自動人形たちに囲まれ、早々に孤独感を覚えるルーディメントの前に、言葉を話す一匹の猫が現れる。それは城内で唯一人、自動人形ではなく猫に姿を変えられてしまった王子の教育係、パウリーノであった。

 以降、このルーディメント王子とパウリーノの二人の対話を軸に物語は進行していくのだが、専らその対話の中心となるのは「自動人形をどう扱うか」という議題である。面白いのはこの作品において自動人形たちは終始徹底して「モノ」として扱われている点だ。

 SFでいえばアンドロイドや人工知能SFに近い本作だが、過去多くの作品がアンドロイド達に芽生えた自我や感情(に見えるもの)を描き「意識とは何か」や「彼らの人権をどう扱うか」といったテーマに発展させてきたのとは対照的に、この自動人形達はほんの欠片も自我らしきものを抱くこともなければ、主役二人が彼らにそういった人間味を見出そうとするそぶりすら見せないのである。

 故に彼らの対話のほとんどは「自動人形に人間とのコミュニケーションを学ばせる」ためではなく「融通の効かない彼らをとりあえず上手く動かすための命令の仕方を探る」ためになされる。

 

 AIに対するこの現実的で冷めた視線は、作者が言語学者であり、この小説が「人工知能の意図理解を学ぶ」という学習目的で書かれたものだからであると思われるが、このような言語の面からヒトとAIの差異を描いた類似のロボットSFとして私が真っ先に思い出したのは、ジョン・スラデックの『ロデリック』だ。

 自己学習する人工知能を備えたロボット「ロデリック」がひょんなことから人間社会に放り込まれ、人々と一見トンチンカンにも見える対話や交流を繰り返しながら、人間の営みや社会の在り方を学習していく物語なのだが、そこではロデリックという極端なまでに客観的な視点を持つAIを通じて、我々ヒトの知性や言語、コミュニケーションの有り様が見事に異化されている。その意味で『ロデリック』という小説は、AIやロボットといったものを描く以上に「人間」を客観的に描いた作品だったのだ。

 

 同様のことが、この『自動人形の城』にも言えるのではないかと思うのである。

『ロデリック』に登場する人工知能搭載ロボット「ロデリック」と、本作の「自動人形」が持つ共通点、それは彼らが「言葉」をちゃんと読み取れない、のでなく、むしろ人間よりもという点だ。

 AIが未だ人間と複雑なコミュニケーションを交わすに至らないのは、現段階のAIが単に未熟だからだ、と多くの人が考えているだろうし、実際まだまだ進歩の余地があるのは事実なのだろう。

 しかし、そもそも何故我々ヒトはこれほどに複雑で高度な言語コミュニケーションを獲得せねばならなかったのだろう? それは我々が他者の、そして時には自分が発した言葉でさえも、その意味内容を正確に読み取ることができないからではないのか。

 我々は、言葉を、話を、文章を、かなりの頻度で読み違える。日常会話でもネット上のやり取りでも、長い文章はおろかたった一行の短い文章でさえ、その意味内容を正確に把握できずにコミュニケーションに齟齬が生じる、あるいは正確に伝わった(受け取った)ものと互いに勘違いしながら一見して自然に会話が成立しているように見える、このような経験は誰しも身に覚えがあるはずだ。

 そしてそのようにして生じてきた言語コミュニケーションの膨大な「揺らぎ」が、我々の扱う「言葉」に意味を超えた彩りを与え、延いては、それを元に構成された我々の知性や社会や文化といったものを高度で豊かなものにしてきた、と。確かにそれは価値あるものに違いない。

 しかし根本の部分で「言葉を正確に把握できてしまう」機械知性にそのような「揺らぎ」や「豊かさ」は必要でないばかりか、彼らの能力や任務遂行を阻害するバグにしかならないのではないか。

 

 言葉を正確に読み取ってしまう自動人形オートマトンは、主であるルーディメント王子の意図に沿う行動をなかなかとってくれない。しかし、それは自動人形たちが「間違えた」わけではない。トンチンカンな動きをするのは命令を読み取れないからではなく、命令者の発したな言葉による指示を、この上なくに読み取った結果なのだ。

 故に命令者である人間の思惑通りの行動を彼らにとらせるためには、明確な言葉による詳細な指示を出す、という煩雑な手続きを踏まねばならない。このことを分かりやすく示すエピソードとして、作中で自動人形に卵を割らせるシーンがある。

 厨房内で「卵を割れ」という指示をだせば、普通の人間は当然にその卵の中身を料理等に使用するのだと考え、卵の殻を割ってその中身をボール等にあけるだろう。そして命令した側の人間も、相手がその意図を汲んでくれることをほとんど無意識に前提として「殻を捨てて中身だけをボールに移せ」というような指示を省略し、ただ「卵を割れ」とだけ言葉にするわけだ。

「卵を割る」という一文の中に「中身を料理に使う」というような意味を持つ言葉は一切含まれていない。にも関わらず、そのような「意図」を我々がそこに読み取るのは、その場の状況や文脈、一般常識等に照らし合わせ、各々が勝手に推測して判断するからだ。

 そのような言外にある「意図」を勝手に推測などしない自動人形は「卵を割れ」とだけ言われれば、そこに含まれた明確な情報だけから判断し、自分の手の中で卵を叩き潰してしまったりするわけである。

 故に彼らに命令者の意に沿った形で卵を割らせるには以下のように命じる必要がある。

「そう。たとえば、卵を割らせる場合は、まず棚から器を取らせる。そしてそれを作業台の上に置いて、それから卵を手に取らせるんだ。卵にひびを入れるときの、手の使い方、力の入れ方も細かく伝えて、ね。(以下略)」(P140)

 

 ヒトとヒト同士が、顔を合わせる度にこのような微に入り細を穿つような言葉でやりとりをしていては、日々のコミュニケーションや社会活動に大きな滞りが生じてしまうだろう。作中でも、ここまで説明しなければ意図通りに動かせない自動人形の煩わしさに、ルーディメントとパウリーノの二人が何度も嘆息することになるが、それをもって、本作では「人工知能が意図を理解することの難しさ」をこれでもかと描いてるわけだ。

 しかし、私が本作を通読して得た知見は、むしろ「ヒト同士の言語コミュニケーションがいかにものに支えられているか」という再認識であった。「お腹がすいた」と言えば「食べ物を欲している」という意図が自然に伝わるだろう、などという恐ろしく相手依存な言葉の応酬を、日常的かつ無意識に行っている我々は、人工知能に比べて純粋に高度なコミュニケーションを達成していると言えるのだろうか。

 人工知能が未だヒトの「意図」の理解に困難するのは、その「意図」を無闇矢鱈と言外に含ませる我々の言葉が、あまりにいい加減なものだからではないのか。確かに我々はそのような言葉をもって社会や文化を豊かにしてきたが、その過程で生まれたヒト同士の争い、諍い、不和対立もまた、我々の扱う言葉の曖昧さがその一因となっているはずである。

 私は人工知能に関してはほとんどSF的な知識しか持っていない、ずぶの素人である。そんな素人が偉そうなことを言って恐縮だが、人工知能の意図理解の困難さの要因を、人工知能に見出そうとばかりしていては埒が明かないのではないかと思う。ヒトの側もまた、対人コミュニケーションとは別の、対AIコミュニケーションとでもいうべき対話法を探り、歩み寄っていかねばならない時代が来ている……のかもしれない。

 

 

 さて、ここまで本作の人工知能に関する解説、考察について書いてきたが、ではルーディメント王子が辿った物語のほうはどうだったのかというと、これが特に語ることがないのだった。

 退屈だった、という意味ではない。冒頭で述べたように、ファンタジーとして読んでも読み応えがあり、完成度の高い物語なのは間違いない。ただ、それ以上の解釈の余地がないのである。

 

 この小説、最大の特徴は何か。

 それは「人工知能初学者に、人工知能の意図理解の困難さを学んでもらう」という、小説である、という点だ。

 小説とは一般的に、読者がどう読み、どう解釈し、どう楽しもうと自由なものであるはずだ。だからこそ、敢えて「書かない」ことによって読者の想像を促す省筆や、直接的な表現を避けて描写に深みを持たせる暗喩といった、言葉の正確性を意図的に揺らがせる技法が技法として確立しているわけである。

 一方で、教科書や入門書のような一義的な解釈を求められる文章は、曖昧な表現を避け、なるべく読者が読み違えないように正確な言葉によって情報が過不足なく構成されている(ことが理想である)。

 この対比をやや強引に本作に関連付けて喩えるなら、小説は対人コミュニケーション的な言葉で構成され、教科書は対AI的な綿密さを保った言葉で構成されていると言えなくもない。

 

 さて、そのような観点からこの『自動人形の城』を振り返ってみると、本作は小説という形態をとっているにも関わらず、どちらかといえば対AI的な言葉で構成されていることに気がつく。人工知能についてあまり知識を有していない素人に対し、その分野で自明とされている前提知識や歴史的文脈を踏まえた解説を言葉足らずにしていては、理解を困難にするばかりか誤解を招く恐れすらあるからだ。

「卵を割れ」という命令から「それを料理に使う」という意図を読み取るためには「卵は食材である」「厨房は料理を作る場所である」といった共通認識を有している必要がある。

 そのような前提知識を持たない初学者に向けて、作者が何らかの一義的な意図を一方的に伝えるためには、懇切丁寧に言葉を紡がなければならず、結果的に本作は「AIの意図理解の困難さ」を初学者に正確に理解してもらうために、まさに作中で示されたそのAIへの有効な情報伝達と同じ手法をもって書かれた小説、ということになるのだった。

 この作品の文章の丁寧さは、自動人形、つまり人工知能について考察、解説しているシーンだけに留まらず、物語全体に行き届いており、主役二人の心内語も、今どきやや珍しい( )付きで逐一語られる。

(とある場面においては、同シーン内でルーディメントとパウリーノの双方の心内語が記述されてしまっている。これは、小説における「視点の固定」という基本的なルールを破るもので、他の作品であれば素人臭いミスか実験的な手法かと解してしまうところだが、本作の場合はそれすらも登場人物の正確な心理描写を優先した結果として受け取ることが可能だ)

 そのため、読者は、たとえばある場面におけるルーディメント王子の心情といったものを勝手に想像する必要がない(言い換えれば、自由に想像する余地が少ない)。

 

 物語について特に語ることがない、とはそのような意味合いである。省筆や暗喩といった技法をあまり使用せず、主人公達の心の内を丁寧に記述したこの小説からは、そこに書かれている以上の何かを読み取る余地がほとんどないのだ。(勿論、小説である以上、全くないわけではないが)

 小説的な散文の自由さと、教科書的な一義性は、本来あまり相性の良いものとは言えず、実際このような作者の明確な意図が顕れた学習目的の小説は、読んでいて非常に退屈であることが多い。

 しかし、そのような作品の中で私がこの『自動人形の城』を例外的に面白く読めてしまったのは、その学術的内容の分かりやすさや、物語部分の完成度もさることながら、小説という形で記された本作の「人工知能の意図理解」に関する内容が、まさに「小説の面白さとは何か」を考え直すヒントにもなっていたからである。

 我々ヒトは人工知能と異なり、往々にして言葉を正確に読み取ることができない。それ故に作者の意図を自由に想像しながら、あるいは全く無視しつつ、小説をことができる。同じ言葉で構成された同じ作品を読んだはずの人間達が十人十色の感想や解釈を生み出し、我々はその他人の読み違えさえも楽しむことができるのだ。

 

 最近、AIが書いたという小説の話題をちらほらと目にする。私としてもその内容には非常に興味があるし、書かれた文章から人間側が勝手に何かを読み取ることは既に可能であるように思う。

 しかし本作や『ロデリック』を読んだ今となっては、小説を「書く」以前に「読む」ならびに「適度に読み違える」ことができないAIに、果たして小説を「執筆」することが原理的に可能なのだろうか、という疑問が拭えなくなってしまった。

 むしろそれは「小説」という言葉の方を新たに定義し直していく作業になりかねないのではないか、という思考の泥沼にハマりかけているので、そろそろ終わりにする。

 

 いつも通り、何ともまとまりのないエントリになっている気がするが、これも致し方ない。言葉が揺らげば思考が揺らぎ、思考が揺らげば文章が揺らぐ。うん、実に人間らしい記事だ。

 内容がいまいち伝わっていなくても、私が自動人形A Iでないことだけは十分に伝わったはずである。

 

 

 

 

 

 

(今更な補足)

 この記事に限らず、当ブログでは「小説」という言葉を「散文で構成された虚構の物語」つまり単に“fiction”という、最も一般的かつ広い定義で用いている。厳密に「小説」と「物語」を区別し“novel”の訳語として、より狭義の意味でしか「小説」という言葉を使わない坪内逍遥派の方もおられるだろうが、そうすると「小説レビュー」がまず「散文で書かれた物語ではあるが、これは小説なのか?」という判定から始まってしまうので非常に面倒、というか正直私レベルでは手に負えなくなってしまう。現代においては恐らく「小説」の定義について完全なコンセンサスが得られていないはずだ、というこの状況に甘え、ラフにこの言葉を使用してしまっているが、大目に見て頂けると幸いである。