日記をつける、ということ

 

 昔から文章を書くことは好きなのだけれど日記をつけるという行為がどうも苦手だ。単純に飽きっぽいからというのもあるが、逆に一度ハマってしまうと盲目的にのめり込んでしまうタチでもある。もし自分が毎日日記をつけようとすると、すぐにサボって忘れてしまうか、それが生活の中心になってしまうかの両極端になりそうで、何事においても「たしなむ程度に」ということができない性格で困っている。しかし、周りを見てみるとこういう人間は割に少なくない。典型的なのがFacebookTwitterで、あれを頻繁に利用してる人々はどうにも「Facebookを更新するためにどこかに出かけている」ように見えて、これは多分そんなに穿った見方でもないと思われる。今は日記(報告?)のネタを求めて歩く時代なのだ。

 書を捨てよ、街へ出よう、スタバに入って、写真を上げよ

 

 さて、単に自分用の備忘録や思い出を記録するための日記ではなく、読み物としての日記を考えてみたい。他人の日記、ブログを読んで面白いと感じることがあるのは何故だろうか。土佐日記蜻蛉日記更級日記紫式部日記それが極限になると文学としてまで扱われる始末。彼らが他人より面白おかしい体験をしているから? そうかもしれない。自分に馴染みのない世界や専門分野の話は確かに目新しくて面白い。

 けれどもっとシンプルに「他人の話が面白い」と感じるのはどんな時が多いか。話の面白い人はそんなに人と違った経験をしているか? 波瀾万丈な人生を歩んでいるか? 聞いていて面白い話とは実は内容の良し悪しより「語り方」の影響が大きいのではないか。というかもうそれが90%だと言ってもいい。ただの自慢話や土産話ですらちょっとしたオチが用意されているだけで少し楽しく聞ける。聞き手がつい突っ込んでしまうようなボケが入れられていると会話がはずむ。話の順序を入れ替えるだけで相手にちょっとした謎解きをしてもらえる。斜め上の比喩表現を使ってみる。(このあたり巧拙差はあれど関西人なら割と幼い頃から習得しているというイメージはある。関西人はオチのない話を嫌うとか言われるが、オチというより求められるのはツッコミどころであることが多い。ギャグが好きなのではなく、膨らまない話を嫌うのだ)

 裏を返せば話のつまらない人というのはそういった聞き手を楽しませようという工夫なしに事実と感想を羅列しただけの話を垂れ流してしまっていることが多い。いかに内容が物珍しくても読むのも聞くのも苦痛になる。学校の授業だってSNS上での交流だって同じだ。どこで撮った写真を何枚見せられようと、それだけでは見てる人間は楽しくもなんともないのだ。

 

 そう、日記をつけるために海へ山へ街へ出かける必要はない。日記とは退屈で平穏で無味乾燥な唾棄すべきこの日常を 如何に語るか なのである。

 

 日記は本来あまり他人に見せるものではないが、読者は常に存在する。未来の自分だ。今よりも(成長しているとは限らないが)長い時間を生きた自分。昔の日記を読み返す時の一番の読みどころは、当時の自分がどんな考え方をもってその事物に当たっていたかというところで、出来事の細部よりもどのように思考を働かせたかについて詳細に描写しておいたほうが後々読んで面白いものとなる(恥ずかしいものにもなるが)。そうして長い期間に渡って日記をつけ続ければ自身の考え方の変遷が見られるはず、なのだけれど、未だかつてそこまで長い期間継続できた試しはない。

 ブログやSNSが台頭してからは日記は他人見せることを前提として書かれるようになり、(より多くの人に読んでもらうことを目的とするならば)自分以外の読者を想定した創意工夫が必要となった。まず自分しか知り得ない前提情報は一々説明しないといけない。登場人物やその人との関係、自分の仕事内容、思想、嗜好。そうして書きたい出来事の起承転結を考え、タイトルと書き出しをちょっと捻って、山場を考えオチを考え、学んだことを導き出し……ってこれもう小説じゃないか。

 いや、実際のところ小説的な技法は読者を楽しませるために発達したものだから応用が利いて当然なのだが(そうした技術を使ってブログを書いている人に比べ、普通に小説を書いてる人はそんなにいないあたり小説の難しさはやはりプロットを作るところにありそうだ)注意すべきは、読み手を意識しすぎて話を脚色し過ぎたりすると自分が読み返してつまらなくなるということだ。何事もバランスである。未来の自分も読者から外れたわけではない。

 

 当ブログの管理人は本を読むこと、週末に友人と酒を飲んで麻雀を打つこと、その他に何の楽しみもない、そんなロクでもない毎日を送っている人間だ。このブログについても全く方向性は定まっていないし、更新も不定期だろうし、いつ辞めるかわからないし、読者もほとんどつかないだろうけど、文章を書くという手段を通じて少しでも、あるいは少しずつでも証明していきたい。人生は日常の集合体だ。ならば、

     人生は、何を成すかではなく、如何に語るか

                         ではないか、と。