責任は誰にある?

 

 韓国の客船、セウォル号沈没事故について報道が連日なされている。事故の悲惨さもさることながら、関係者がその責任を押し付けあっていることや報道を見た人間が好き勝手言ってることに辟易している自分がいる。事故そのものの原因と責任をごっちゃにし、そこへさらに事故後の対応に対する責任まで混ぜ込んでないかと。で、今回は責任の話。

 

 自分は普段から「責任」についてよく考えさせられる。とりわけ誰に責任があるのかということ、これは本当にわからなくなることが多々ある。そして何か事件や事故が起きた際のマスコミの報道のあり方やネット民の反応等を見ていると、どうにも腑に落ちない気分になることも多い。顕著な例は少年犯罪。少年法が適用される年齢の人間が大きな事件を起こした時、世間の意見は分かれる。一つは未成年だからといって容赦せず、本人に責任をとらせしっかりした罰を与えるべきだというもので、もう一つは「親が悪い」という意見である。親の教育が悪い、まずこれは本当か?

 未成年が罪を犯した時、必ずと言っていいほどその人物の家庭環境についての報道がなされる。よく耳にするのは幼い頃から虐待やネグレクトを受けてきたというものと、逆に親の教育熱心が過ぎて、厳しく抑圧された環境で育ってきたというもの。その反動で大きな過ちを犯してしまった、という理屈だ。前者は明らかに親には問題がある。ただしそれはその子供が犯罪を犯す犯さざるに関わらず、親として正しいあり方ではない、という意味でだ。難しいのは後者で、少なくともこのケースの親は子供のためを思ってやっていることが多い。実際スパルタで育てられた結果、立派に成功した人物だって少なくはないだろう。

 これは持論なのだが「子育ては運ゲー」だと思う。どのように育てたって、それで思った通りに子供が育つわけではない。甘やかした結果、伸び伸びと想像力豊かに育つ子もいれば、自己中心的で傲慢になる子もいるだろう。子供の人格形成に親の教育や言動はもちろん大きく影響するに違いない。しかし、子供は身の回りのありとあらゆるものから影響を受ける。学校での教育、部活動、友人、恋愛、テレビや漫画などのフィクション、インターネット、それら全てを親がコントロールすることは不可能だし、個人的には思春期にもっとも重大なのは交友関係だとさえ思っている。

 同じモノから同じように影響を受けた子供が同じ行為に走るわけではない。親に虐待を受けようと学校でイジメられようと、それで必ず人格が歪に形成され、将来犯罪やDVに走ってしまうなんてことはなく、むしろそうならない人間のほうが圧倒的に多い。全ては個人差である。人を殺した少年の家庭事情を調べたら、随分厳しく育てられてきたことが分かったとする。なるほど、専門家が言うようにそれが犯行の根源的な原因となっているのかもしれない。しかし、そんなこと当時の親に予想できたはずもないし、あなたの子供だってあなたが良かれと思って施してきた教育が原因でいつか罪を犯すかもしれない、ということになる。また、親の教育に原因があると決め付け、親の責任を追求するのであれば、それは子供の自由意志を否定することになるということも忘れてはならない。子供の意志や行動は親(の教育)によって規定されているということになるからだ。

 少年犯罪が起きた際、条件反射で親の責任だと考えてしまう人が多いのは、原因と責任をごっちゃにしているからだと思う。原因の究明と責任の追求は分けて考えなければいけない。親の教育に限らず、世の中には同じ原因から全く違う数多の結果が出てくる事象がいくつもある。そのような場合の「原因」とは何か問題が起こってから初めて遡及的に見い出されることになるが、演繹は成立しない。つまり、子供が罪を犯して初めてその原因を親の教育に見出すことはできても、そのような教育を施している親に対して「子供を犯罪者にするような教育はやめろ」とは言えないわけだ。敢えてラジカルな言い方をするなら、犯罪者の親というのは大抵の場合「ハズレくじ」を引いたに過ぎないのである。

 

 仮に、親には責任がないものとする。ではやはり本人に責任があるのかというと、これも少し考えなければいけない。そもそも「責任」とは一体何に付随してくる概念なのか。人間の行為や発言には必ず責任がついて回るのだろうか。

 喩え話が多くて心苦しいのだが、野球でホームランになった球が場外の通行人に当たって怪我を負わせたとする。このバッター、あるいは打たれたピッチャーに責任はあるだろうか。これは隕石が落ちてきたのと同じ、不幸な事故であると考える人が多いかもしれない。ただ、過失致死傷罪なんて罪があるくらいだから過失であれば常に責任は問われないかというとそうでもないらしい。どこまで罪になり責任を伴うのか。しかし、この問題は考えれば考えるほど故意か過失かなんてどうでもよくなってくるのだ。

 その結果の原因が故意であろうと過失であろうと、それが「自律的な行為」でなければ責任は生じない、というのが共通認識だと思う。いくらなんでも他の人間に銃をつきつけられ「人を殺せ」と脅されて泣く泣く手にかけてしまった人を責めるのは酷だろう。「自律的」とは自己以外の何かからの強制力のない状態を意味する。そのような外部からの力が働いている場合は「他律的」となる。これは故意と過失の問題ではない。

 先に述べた「親からの影響」は外部の力である。もしそれが原因となって犯罪に走ったのならば、それは他律的な行為になる。どんな背景があろうと最終的に自分の意志で行ったのなら自律的じゃないか、と思われるかもしれないが、その人が最終的に犯行に及ぶような人格になってしまったのもまた外部の影響に拠るからだ。なにもこれは犯罪に限ったことではなく、日常生活のあらゆる行為に言えることで、人間の行動というのは突き詰めれば必ず自己以外の何かからの影響に起因している。あなたが昼食にパスタを食べたとする。完全に自分の意志だけでそれを選んだように思えても、実際それは昨日見たテレビに、一緒に注文した友人に、あるいはメニューの写真に感化されたかもしれないし、もっと言えばパスタが好きということ自体がこれまでの人生で何かに影響され形成されてきた嗜好であるはずだ。全ての行動を遡って考えていけば必ず外に原因が見つかる。別にスピノザ的な決定論を説きたいわけではないが、本当の意味で「自律的な行為」など実はないのである。

 そんな馬鹿な、俺は完全に自分の意志だけで行動できるぞ! と思って立ち上がり、どうだ!と奇妙な腹踊りをしてみせるそこのあなた、残念、あなたはこの文章を読んだからこそ、それが原因でそんな奇行に走ってしまったのだ。全ての行為が他律的とはつまりそういうことになる。

 人間に自律的な行為がないとなると、犯罪もまた外部の影響によって他律的になされる行為と見なされ、したがって責任は伴わないことになる。というか責任という概念自体が無くなってしまう。心神喪失か否か以前の問題だから精神鑑定すら必要ない。

 いくらなんでもそれは困る。誰も責任をとらない、では誰も納得しない。誤解のないように言っておくが、今回のエントリに犯罪者を擁護する意図は一切ない。自分だって凶悪犯罪に心を痛め、犯人に対し強い憤怒を覚えたりする普通の人間だ。でも原因と責任を突きつめるとそういうことになってしまう。

 だから人類は「自律的か否か」という問題に目を瞑った。いや、目に見えた強制力がない限りそれは自律的な行為だとみなすようにしたのだ。当然の妥協である。犯罪が起きれば被告本人に、作業中の事故で人が死傷すれば、直接の原因となる人物に責任をとらせることにした。それは同時に彼らの自律的な自由意志を認めることでもある。そしてその結果悪いことも起こった。意志を持たない乳幼児やペットの失態は保護者が責任をとれば良いが、曖昧な場合の判断が難しくなる。精神が未発達な少年や精神疾患者の責任能力に関して意見が分かれてしまうのはこの妥協の産物だと言える。また、原因と責任をほぼセットにしてしまうことによって、責任を負わされる予定の人物が内心では自分に原因があることをわかっていながら、責任を逃れたい気持ちから事実まで否定しがちになってしまった。それは先の沈没事故を見ていてもよく分かる。

 事故や犯罪だけではない。世の中誰かが責任をとらなければ収拾の付かない事態は沢山ある。だから見返りとしてそうでない人より賃金を上げるなどして「責任者」というものを予め立てておく。直接その人に原因はなくてもその人の管轄内で起こることに責任を負うわけだ。このシステムが上手くいってると言えるのかは判らないけど。

 

 で、結局のところ誰に責任があるのかというと、それはもう偉い人が決めた誰か、としか言いようがない。ここまで書いて身も蓋もないけど人類が妥協してそう決めたんだから仕方ない。誰に責任があるのかは誰かが責任を持って決めるのだ。その誰かも誰かが責任を持って任命する。そもそも「誰に責任があるのか」などと問うからややこしいのであって、社会にとって大事なのは「誰が責任をとるのか」ということ、それだけらしい。そこだけわかれば4000字書いた甲斐があったね、うん。

 で、肝心な責任ってどうやってとるの? 刑罰うけたり罰金払ったり弁償したり慰謝料払ったりすれば責任を果たしたことになるの? 失ったものは返ってこないし、被害者や遺族の気持ちはそれで晴れるの? って話に移ろうかと思ったけど、これ以上長くなっても面倒だし、考えもまとまってないのでやめておく。

 

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