青春崇拝

 

 ここのところずっと金欠で、忙しくなって、でもやっぱり金欠で、すっかりブログを放置して三ヶ月。

 というのは言い訳で、単に一ヶ月ほど書くことが思い浮かばなくて、それ以降はすっかり忘れていた。金欠なのは本当。更新ない間も意外とアクセスがあったのは少し嬉しい。

 

 学生でも会社員でもない私には縁のない話だが、世間は夏休みらしい。蝉の声と、扇風機の羽音、つけっぱなしのテレビから流れてくる金属バットの甲高い音を聴いていると、ああやっぱ夏っていいなぁと毎年思う。

 今年の甲子園は飛び抜けたスター選手もおらず、劇的な逆転劇も(所謂、甲子園の魔物的な)少ないが、世間で騒がれ過ぎないこのくらいの方が良いとも思う。主催者にとっては見せ物で興業でも、プレーヤーである球児たちにとっては何のしがらみもない部活動なのだから。

 ところが世間は昔から高校球児に対し、礼儀やスポーツマンシップ、全力さ、正々堂々とした戦法といったものをプロよりも強く求めがちな気がしている。有名どころだと松井秀喜が石川星陵高校にいた頃、甲子園で5打席連続敬遠を受け相手チームの明徳義塾が非難を浴びたことがあった。高校生なら正々堂々勝負しろ、と。この手の「高校生らしさ」を求める批判と、その批判に対する批判は毎年のように起こり物議を醸す。今年も二球連続イーファスピッチ(山なりの超スローボールのこと)をした投手や、大量リード時に容赦なく盗塁を仕掛けた高校などに批判が出た。

 プロでは強打者を敬遠しようと超スローボールを投げようとそれほどの非難は受けない(相手ファンからヤジられる程度)しかし、技術的、戦術的なことはともかく、態度やマナーといったものはプロ選手こそ厳しく見られるべきではないか。それなのにプロときたら、乱闘はするわ試合中に不貞腐れるわ審判小突くわで明らかにアマチュア時代より態度が悪くなる人が増える。ところがそれに関してもやはり「プロ失格だ!」というバッシングまではなかなか浴びない。何故なのか。彼らのほうが大人であるはずなのに。(※プロが嫌いなわけではない)

 甲子園までやってくる球児達は体格も恵まれた子が多く、インタビューの受け答えがしっかりしていたりするので錯覚しがちだが、高校生というのは精神的にはまだ不安定で未熟な未成年であり、まして金を貰ってプレーしてるわけでもない。マナーだの何だのは当人たちの問題であり、観客の気分を良くさせる義務も義理もないはずだ。松井の豪快なバッティングが見たいのはわかるが、真剣勝負の当事者である球児たちはそんなこと知ったことではない。

 これは批判の話ではないのだが、私が強く印象に残っている試合がある。2006年夏の準々決勝、帝京対智弁和歌山の試合。逆転につぐ逆転劇で歴史に残る名勝負だった。9回裏に1点差に迫られた帝京だったが代えのピッチャーも残っておらず、この場面で一年生投手に試合を託した。一年生でこの大舞台、9回裏一点差、無理もない、全くストライクが入らずすぐさま同点に追いつかれ、かつ1死満塁。フォアボールでもサヨナラという場面で1ストライク3ボール。智弁和歌山はもう立っているだけで勝てるような状況だったが、打者は次の球を振ってファールにした。

 TVの解説者はこのバッターを褒めた。「エラい、大したもんだ」と。しかし実際はどうか。私は素人なので絶対とは言えないが、勝利に拘るのなら見送るほうが良かったのではないかと思った。満塁だから手を出せば併殺もあり得るし、相手は明らかに制球力がない。何より「エラい」とはどういうことか。それは結果ではなく姿勢についての褒め言葉だ。相手の自滅待ちではなく、自分のバットで勝利を手にしたほうが美しい。そう言っているように聞こえた。プロの試合では聞かない解説の言葉だった。当時高校を卒業して間もなかった私は、この時の投手を気の毒に思っていたし打者にも確かに男気は感じたが、結局その後サヨナラ押出しで終わった試合の結末を、複雑な違和感と共に見守っていたことを覚えている。

 

 世間のいう「高校生らしさ」とは実に曖昧で包括的な言葉であるにもかかわらず随分意味が偏っている。それはきっと礼儀正しく、相手を敬って、正々堂々と、全力で、爽やかに、プレーすることなのだろう。そして幸か不幸か、世間がそれを求めていることを球児たちはきっと解っている。皆、笑顔でのプレーを心がけ、チームメイトが失策しても眉をひそめず、勝っても負けても爽やかに礼をして退場し、勝ったチームは謙虚にインタビューに応じ、負けたチームは律儀なまでにカメラの前で土を集める。

 それらは確かに瑞々しく、高校生らしさ、若々しさの一端であると思う。しかしそれだけでは私の知ってる高校生らしさとは随分距離がある。私が高校を卒業して10年程経つが、当時の自分を思い返すととてもそんな絵に描いたような理想の高校生ではなかった。不良でも優等生でもない平凡な高校生だったし、エネルギーはあったが幼かった。

 思うようにいかなくて不貞腐れたり、不祥事を起こして大会に出られなくなったりする未熟さもまた高校生らしさだと思う。まるで自分達が高校生の頃はそうだったとでも言わんばかりに、青春の綺麗な部分だけを切り取ってテレビの向こうの炎天下の球児達に押し付け、自分達の求めてないものを見せられたら「それじゃ高校生らしくない」と宣う彼らは、自分達が歳相応の大人になったという自覚があるのだろうか。

 そんなある大人が言う。「高校野球は部活動であって教育の一環。だから心も磨いてもらいたい」と。なるほど、それ自体は正論臭い。

 しかしスポーツが教育の一環に成り得るのは、それが厳格で、無情で、残酷な面を持ち合わせているからこそである。教育のためなどと称してルールや勝ち負けを度外視するような注文をつけていては本末転倒ではないか。

 高校野球はトーナメント制で一度でも負けたらそこで終わり、夏なら三年生は引退だ。一勝に懸ける思いはあるいはプロよりも強いかもしれない。そんな勝利への執着が暗黙のルールを破った容赦のない攻撃を生み、勝負よりも勝利に拘った小賢しい戦略を採らせ、時には反則スレスレのダーティに見えるプレーを呼ぶこともあるわけだ。この必死さ、なりふり構わなさ、部活動でこれ以上に学ぶことなんてあるのだろうか。なにより、実に「高校生らしい」ではないか。

 

 私ももう(年齢だけで言えば)いい大人だ。無茶をやるエネルギーは消えかけているし、十代の頃の思い出は美しく褪せてきている。だから高校球児たちに「瑞々しい青春」を思い出させて欲しいというオジさんオバさん方の気持ちは理解できなくはない。ただ、現地の観客もTV視聴者も、高校生の部活動、青春の1ページを「観せてもらっている」のだということを忘れてはならないと思う。時には醜い一面を見せられたって「それもまた高校生」と温かい目で見守れる度量がないなら、アマチュアの試合など見なければいい。

 我々のようなかつての地方大会止まりの一般人にとっての「たかが部活動」で、身内でもない人間をここまで楽しませてくれるのだから、球児たちには感謝こそすれ文句をつけたり、ましてや罵倒したりなど以ての外である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 甲子園を見終えた後、シャワーを浴び、缶ビール片手にプロ野球ナイター中継に移行する私。参ったなぁ、8月は一日中野球観てるよ俺。

 

 マートンが四球で出塁、後ろの打者が凡退して、私はそっと呟く

 

 

「福留○ね」