陰口は絶対悪か?

 

 例えば、の作り話。

 A、B、C、Dという男4人グループがいる。彼らは学生時代から仲が良く、大学を卒業して各々環境が変わった後も付き合いがあり、時折休みが合えば皆でどこかへ出かけたり、休みを合わせて行事を催したりしていた。

 それらの多くを企画していたのはAだった。Aは子供の頃からリーダー気質で、皆をまとめ上げ、先導し、人に頼られる自分が好きだった。

 ある時、いつもの4人で県外の山へキャンプに出掛けた。そこでもAは日程の調整、キャンプ場探し、用具の買い揃え、レンタカーの手配、目的地までのルート確認と所要時間の把握、予算の概算、スケジュールの作成などをテキパキとこなし、4人は段取り良くキャンプを楽しむことができた。

 夜、テントの中で皆と酒を飲み交わしていたAは、尿意をもよおして一人テントを出た。火照った顔を大自然の夜風で冷ましながら気分良く戻ってきたAは、テント内から聞こえてくる会話のトーンが、やや低くなっていることに気がつく。辺りは静まり返っていて、少し離れた位置からでも会話が聞き取れそうだ。何か不穏な空気を察知したAは、テントに入る前に少し聞き耳を立てることにした。B、C、Dによる会話は以下のようなものだった。

 

B「しかし、Aもほんと仕切りたがるの好きだなー。ちょっと独断的というか」

C「そうか? 俺はいつも任せっきりで悪いなぁと思っているけど」

B「そうだけど、こういうイベントって皆で相談して色々決めるところから楽しいわけじゃん? あんまりテキパキ一人で準備されると俺らゲストみたいでさ」

D「俺はやるなら海の方が良かったんだけど、なんか山って前提になってたな。いや、来てみたら山も楽しいけどね」

C「まぁ面倒なことほぼやってくれてるし、ある程度はAが好きなように決める権利はあるんじゃない?」

B「やってくれてる、というけど、別に俺は出来ないわけでも、やりたくないわけでもないし、やってくれと頼んでもいない」 

D「良い奴だけど、ちょっと上から目線を感じることはあるね。俺がやっといてやるよっていう」

C「分からんではないけど、実際、段取りは凄くいいじゃないか。Aがズバッと決めなかったらグダってること多いと思うわ」

B「まぁ正直な話、任せっぱなしなのが男として悔しいってのはある」

D「あーそれだわ(笑) 俺ら男4人だからまだいいけど、女の多いコミュニティであんだけ主導権取られたら黙ってられんね」

 

 気まずくなったAはすぐにテントには戻れず、河原で一服してから戻ることにした。Aが帰る頃には話題は全く関係ない馬鹿話になっており、BCD共に何事もなかったかのように気さくに接してくる。Aも先ほどの会話はとりあえず心の片隅に仕舞い込み、残りの時間を楽しむよう心がけた。その後も4人は良好な関係が続いたが、Aは以前ほど積極的にリーダーシップを見せなくなってしまった。

 

 なんだか設定の割に会話の内容が妙に低年齢な感じになってしまったが、期せずに自分に対する批判を立ち聞きしてしまったAの心情は察するに余りあるし、BやDに嫌悪感を持った人は多いだろう。

 頼られたいという欲求が確かにあるとはいえ、実際にAは献身的かつ有能であるし、BやDはいつも受け身でいながら陰で批判とは感心できない、というのが一般的な感想だと思う。

 しかしこのような負の感情を抱えながら、何故このグループは卒業後も関係が続いているのか。ここまで分かりやすくはなくても、現実でもこのグループのようにある個人が別の個人に対し不満を持ち、時々陰口を言い合ったりしつつも、全体として良好な関係が続いているということはままある。

 極端な話、こうは考えられないだろうか? こういうグループは

  「陰口を言い合っているからこそ、関係が続いている」

のだと。

 

 先ほどの例え話はどうしてもAに同情してしまいそうだが、Bの立場になって考えてみる。

 まずBやDは、Aの性格に一部不満を感じながらも何故友達を続けているのか。あの会話だけを聞けば、大学を卒業した後疎遠になっていてもおかしくはない。

 簡単な話で、B、DはAの仕切り症を時々ウザったく思いながらも、その欠点を補って余りあるほどAのことが好きなのだ。これは単にこの話を都合良く設定している、というわけではない。現実の友人間においても当たり前にあることだ。人間誰だって良い面と悪い面を備えており、交友の深い友達ほどその両方をよく見ることになる。そしてその人と一緒にいることで感じる楽しさが、時々感じるストレスを上回っているのなら、関係が続く。それだけの話である。

 BはAを好きだからこそ、押し付けがましいAの短所がどうしても気になる。さてBはこの鬱憤をどう扱うべきだったか。選択肢はおそらく3つしかない。

 

1、本人に面と向かってはっきり告げる

2、A本人がいない場で愚痴る(陰口)

3、不満を押し込めたままAに合わせ続ける

 

 陰口に対する批判として「言いたいことがあるなら本人にハッキリ言え」というのは決まり文句の一つである。確かにそれが道徳的にも打算的にも正しいケースはある。しかし人間関係において常にハッキリキッパリ相手に物申すことが正解でないことは明らかだろう。

 相手の悪い所を指摘するというのは、言われた本人はもちろん動揺するし、相手が親しければ親しいほど、言う側にとっても精神的負担が大きい。言われた相手が指摘を素直に受け入れ、反省するとも限らない。あまりクリティカルな指摘をしすぎると相手との関係が壊れるリスクも低くはない。

 例の話の場合、BはAの性格をよく知っており、Aが他人に頼られることでアイデンティティを確立していること、本人が良かれと思って行動していること、などを理解しているとする。そうすると、面と向かって指摘するというのはなかなか難しく、またそれが正しいのかどうかも判断しがたいのではないか。

 ではBは黙ってAに合わせ続けるべきなのか。もし友人間において一方が、あるいはお互いが、相手の不満点を言い出せず、かといって第三者に愚痴ったりもせず、我慢して相手に合わせようとし続けるのならば、その関係は長く続くのだろうか。

 そのような関係が続くとは私には思えない。恋人の関係においても、定期的に喧嘩するカップルのほうが長続きするという話があるように、人間関係おけるストレスはそう溜め込み続けられるものでも、自然に溶けていくものでもなく、何らかの形で発散させる必要があると考えている。たとえ、一緒にいる楽しさがストレスより大きかろうと、それで引き算されて不満が消えてなくなるわけではない。

 このように消去法で考えた時、誰かに対する不満を共通の友人と共有すること、つまり陰口というやり方での発散はそれほど悪になるのだろうか。Bは溜め込んでいた鬱憤にDが共感してくれて少し安心したはずである。自分だけが感じていたことではないんだな、と。

 

 無論、私は世の中の陰口を全て許容すべきだとは言わない。虐め、差別、誹謗中傷といった、明確な悪意によってなされる陰口、悪口を毛ほども肯定するつもりはない。あくまで、良好な関係を続ける上でのガス抜きとしての陰口に対して、それほど神経質にならなくても良いのではないか、という考えに至っただけだ。

 ガス抜きだろうと、言われた本人はたまったものではない、と思われるだろう。しかし陰口の対象となってしまった本人とってさえ、考え方一つで有益なものともなりえる。

 

 私個人の話をすると、私は自分では実に素直な人間だと自負しているのだが、長く付き合っていると頑固でちょっと癖のある性格だと見られる傾向にあるようだ。友人間でも、いや、むしろ仲の良い友達にほど陰で色々言われることが多いらしく、それを人づてに耳にしてしまったことも何度かある。当然そういった話を聞いた瞬間は凹むし、直接言ってこない友人達を恨みさえした。しかし冷静になって思い返すと、私はその時何を失ったのだろうか。

 私の自尊心は確かに傷ついたし、その後の接し方に悩んだりもしたが、その友人達との関係は以降も問題なく続いた。何故なら、相手は私に日頃の不満を伝えたという実感がなく、気まずさを感じていない。私の心持ち一つで今の関係は揺るがないからだ。

 それに実利的な面で言えば、私は損をしたどころか普段聞き得なかった自分に関する評判、情報を「得ることができた」のではないか。実際に、その後私は言動や態度を少し修正する努力をしたし、それがどの程度実を結んだかはわからないが、少なくとも自分を省みるきっかけにはなったと思っている。

 子供の頃ならともかく、ある程度の年齢になってくると誰しもが空気を読めるようになり、相手との関係を拗らせたり、グループの調和を乱すことはできるだけ避けるよう努めるようになる。そのような関係に身を置いていると、面と向かって「自分の悪いところ」を指摘してもらえる機会は少なく、自分の無意識の言動が他者に不快感を与えているという事態にも、なかなか気付くことが出来ない。そんな時、予期せず自分の悪評を耳にしてしまった。それは果たして全く不幸なことであろうか。 

 

 性格とは、自分や誰か一個人だけ取り上げて診断することに意味がなく、その人間が他の誰かに、あるいは特定のコミュニティ内、グループ内において「どのように受け取られているか」でしか語ることが出来ない。

 例えば冒頭のAのようにリーダーシップをとりたがる人間は、ある人の目には「頼りがいがある」と肯定的に映り、別の誰かには「でしゃばり、自己中心的」とネガティブに受け取られることもある。逆にいつも受け身で他人に合わせがちな人間は「協調性がある、ノリがいい」と思われることもあれば、「主体性がない、頼りない」という印象も与えかねない。誰にでも愛想が良く社交的な人は「親しみやすい」と思われたり「八方美人、信用出来ない」と思われたりするし、寡黙で真面目な人間は「冷静で安心する」と思われる一方、「堅物でとっつきにくい」などと思われたりもする。

 

 余程難のあるものでない限り、性格の良し悪しの大部分は付き合う相手との相性に依存している。だから友達に陰口を言われたからといって、即座に自分を責めたり、過度に傷ついたりする必要はない。ただ、相手やグループの空気に合わせて少し態度を修正すればいいだけなのだ。

 陰口はもちろん、どんな内容であれ感心できたものではない。しかし陰口を言われつつも、何故自分はいつも誘われるのか。何故彼らはいつも自分に付き合ってくれるのか。それはそのような自分の短所、悪評を凌駕するほどの魅力が自分に備わっているからだ。などと、ちょっと過剰に自信を持っていれば、多少の陰口には怯えなくて済むし「長い付き合いだ、愚痴くらい許してやろう」と寛容な気持ちになれるというものである。

 

 ……と考えるのは、人間関係を少し美化し過ぎだろうか。でも、私は友達なんてそんなもので良いと思っている。

 

 

 

 このエントリは正直あまり賛同を得られないかもしれない。

 LINEの普及などで陰口がますます陰湿化していることなどもあって、世間では陰口に対する嫌悪感、恐怖感がどんどん増しているからだ。とは言っても人間はどうしようもなく陰口を叩く生き物であって、見えない影に怯えて日々を生きるよりは「言いたい奴には言わせておけ!」くらいのメンタルを持っていたほうが過ごしやすい世の中なのは間違いない。

 当ブログはコメント欄を設けていないので、どうしても文句を言いたい「陰口絶対殺すマン」の方はTwitterのほうへどうぞ。

 

 

 

 この記事をどこかでこっそりあげつらって陰口を言う、なんてことは許さないゾ。

 

 

 

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