火事の話

 

 先日、とある配信者が生放送中に火事を起こして話題になっていた。同じ喫煙者で、オイルライターを愛用する身としては、滑稽だけど笑えない動画だった。


配信者が配信中にオイルマッチで火事になる大事態に 2015年10月4日 ...

 

 火災が発生する過程と、現場の人間の動転、モニターの向こうから冷静に指示を出そうする第三者の様子をそれぞれ克明に記録している映像というのもそう見ない。別に彼を馬鹿にしたいわけではなく、火の怖さや、当事者と傍観者の思考の違いなどを知ることのできる貴重な動画だと思う。

 動画を観れば分かるが、この配信者の行動は実に愚かで、火への対処も悪手続きだ。ただ、ここまで酷いのは考えものにしても、実際に自宅で炎を前にして冷静に対応出来る人は少ないと思う。火は適切な対処法以外が全て悪手になる、と言っても過言でないほど扱いがシビアな猛獣で、現に私も火事の現場に居合わせたことがあるのだが、火への恐怖心は動物の本能なのだなぁと思い知らされた。

 

 というわけでちょっと私が経験した火事の話を。

 

 

 私は飲食店で働いており、3年前の冬に勤めていた店舗で火災が起きた。といっても結局は小火程度で済んだのだが、油と可燃物だらけの飲食店だ。対応が遅ければ間違いなく全焼していたと思う。

 火の出元はキッチンだったが、最初に異変に気づいたのはホールの女の子(ウェイトレス)だった。時間帯は夜中で、幸い客数は少なかったが、従業員もまた少なかったために発見が遅れてしまったのだ。何よりこの時間帯は店長が不在だったのが痛い。キッチンの従業員は私と後輩の二人で、私は休憩中で休憩室に、後輩は洗い場で食器を洗浄していた。営業時間中はいつオーダーが通ってもいいように鉄板が火にかけっぱなしだ。つまり特定の飲食店では「火の元に誰も立っていない」という一般家庭ではありえない光景が日常的にあるのだ。

 私がぼーっと煙草を吸っていると、ホールの子が不安そうな顔をのぞかせた。

 

「キッチンから黒い煙が出てますよ」

 キッチンにいれば煙などいつも窒素と酸素の次くらいに吸っている(誇張)。しかし黒煙となるとさすがに異常で嫌な予感はしたが、後輩が何か焦がしたのだろうくらいに考えた。急いで厨房に戻ると、少量だが確かに黒い煙が上がっていて焦げ臭い。

 通常、火がついているのは鉄板と焼き網くらいしかないので確認したのだが、何が焦げているのか一見してわからなかった。そして黒煙よりも異様なモノを発見して驚く。サラダ油がボコボコと泡立っている。水が沸騰したみたいに。後輩も「なんだこれ」という表情。

 それは揚げ物用の油ではなく鉄板に塗るためにただ容器に貯められている油で、いつもは常温で使用されている。それがこんな状態になるのは、その下で火が燃え盛っているのが明らかだった。「サラダ油は370~380℃を超えると発火する」という知識をかろうじで持っていた私は慌ててその容器を退かしたのだが、この時容器をひっくり返してでもいたら店は無くなっていたに違いない。

 実に説明し難いのだが、この容器というのはその型に空いた穴にはまっていて、普段はそこに油を注ぎ足していくだけの仕様だ。よって私はこの店に入って初めてその容器自体を持ち上げたのだが、その下が広々とした空洞になっていたことにまず驚き、そこが火の海と化していたことに戦慄した。

 頼むからオーダー通るなよと祈りつつ、一端全てのガスを止める。燃え方から明らかに油汚れが燃えていると見られ、水をかけるのはマズいと判断した私は、粘度の高い業務用の液体洗剤を穴にぶちこんだ。が、消えない。穴が狭すぎて奥の空間まで届かない。それどころか穴を塞いでいた油の容器を退かしたために新しい空気が入り込み、火が大きくなっていよいよ普段目に見える壁にまで火の手が伸びた。これはマズい。

 ここで私はようやく消火器を使う決断をする。遅いと思われるかもしれないが、飲食店において消火器の使用はその日の「営業終了」を意味する。壁も、調理台も、調理機器も、一部の食材も、みんな粉まみれになるからだ。まだ通常の営業時間は3時間ほどある。店の責任者でもない私が勝手に閉店を決めるのは、それなりに覚悟がいるのだ。

 消火器の場所など意識したことがなかったのだが、倉庫と裏口に一本づつ置いてある光景が何故か脳裏に浮かんで後輩に取りにいかせる。ああ、だから消火器って目立つ色してんだな、などと呑気に納得していると、後輩が消火器を持って迅速に戻ってくる。

 

「ちょっと早いけど、オーダーストップな」

「早く帰れますね」

 などと、軽口を叩く余裕がこの時はまだあったのである。消火器を使うという決断をした以上、この小火はもう消えたも同然だと思っていたからだ。後始末が面倒だなぁとさえ思っていた。消火器を過信していた、というよりも火のしぶとさを侮っていた。

 この時生まれて初めて消火器を使った私だが、使い方は実に簡単だった。ピンを抜いて、ノズルを火元に向け、レバーを握る。勢い良くピンク色の粉が吹き出す。何故ピンク? 誰の趣味? とか考える余裕もあった。粉と煙で視界が一気に悪くなるが、構わず丸々一本これでもかと空洞の中に吹きつけてやった。

 

 バトル漫画で敵を派手に爆撃した後「やったか……?」という台詞を吐くと、大抵土煙の中から無傷の敵が現れる。

 同じ過ちを私もやってしまった。「消えたか……?」と。

 

 真っ白な視界の暗い穴の奥で、オレンジの光が妙に自己主張していた。消えていない。少しでも消えてないと、また一気に燃え広がる。消火器一本使っても一瞬火の勢いを抑えられただけ、というのは中々絶望的だ。それほど火の元の位置が悪すぎた。もしくは私の使い方が悪かったか。なんにせよ消火器が有効なのは出火元がわかりやすく露出している場合に限るらしい。

 火が再び壁登りを始め、いよいよ手に負えない火なのだと悟った私はホールの女の子二人に慌てて指示を出す。一人には119番と店長への連絡を、一人にはお客さんを店外へ避難させてもらう。その間私はというと、二本目の消火器を手に少しでも火を抑えにかかる。消すというより時間稼ぎ。このあたりで火災報知機が鳴り始めた。

 それにしても報知器というのは何故あんなに神経に触る音なのか? ただでさえ燃え盛る火を前にしてテンパッているのに、煙で視界も悪けりゃ、耳も喧しいわで、あれで冷静になれというのはまぁ難しい。五月蝿くないと機能しないものなのだから、仕方ないのだろうけど。

 二本目の消火器もすぐ空になった。壁を登り切った炎が、油まみれの天井を飲みこんでいく光景を見上げて、私は後輩に告げた。

「よし。逃げよう。命が一番大事」  

 

 真っ白な視界の中を姿勢を低くして逃げながら、これはもう駄目かもしれんねと思っていた。キッチンの天井には排気口があり、中は当然ぎっとぎとに油で汚れている。そこまで火が到達したら屋根裏が全部燃えるだろう。ところが、表玄関から後輩と店を出ると、ほとんど入れ違いで消防隊がやってきた。早い。レスポンスタイム世界一は伊達じゃなかった。あとは彼らに任せるしかない。外では不安そうなホールの二人と、ざわつくお客さん達、大げさなほど多く集まった消防車で賑やかだった。

 ほどなくして店長が来る。何故かパートのオバサンもいる。たまたま一緒にいたらしい。なんでこの時間に一緒にいるんですかね……とため息が出るのを抑えて状況を説明し、頭を下げる。私が悪いんじゃないけど、多分。

 その後警察もやってきて、たらい回しに同じことを何度も聞かれた。質問攻めが終わる頃には、この火事の説明に関してジャパネットたかた社長ばりに上手くなっていた自信がある。それにしても、ここの従業員はみんな普段ポーッとした若者達だと思っていたのに、非常時とあらば迅速に動いてくれて驚いた。危機感か、使命感か。

 消防隊は火をあっさり消してくれたようで、キッチン以外に被害はほぼなかった。キッチンに近い休憩室も変わりなかった。テーブルの上の灰皿には、私のハイライトが根本まで棒状の灰になっていた。あの時急いで出たから消し忘れていたらしい。もし店が全焼していたら「煙草の不始末が原因」にされていたかもしれない。危ない危ない。

 実際の出火原因は「長年堆積した油汚れの発火」らしかった。掃除はしとくもんだね。

 店長は店が焼けなかったことに安堵し、従業員達は私物が無事だったことを喜んだ。雇う側、雇われる側の意識差である。時刻は普段の閉店時間を2時間ほど過ぎていた。早く帰れますね、とはなんだったのか。まぁ、さすがに翌日は休業だろう。

 

 などと高をくくっていると、翌日早朝からキッチンの清掃に駆り出され、昼から通常通り営業しましたとさ。

 日本の飲食店はたくましい。

 

 

 

 振り返ると、私含め従業員達はそこそこ上手く対処したように思う。しかし、なにも私は冒頭の動画の彼と比較してそれを自慢したいわけではない。

 私が、慌ててはいたがパニックにならずに済んだのは「所詮自分の家ではない」というある種の無責任感と、「店長の不在を任されている」という責任感が同時にあり、「お客さんを避難させねば」という使命感や、「仲間が4人いる」という安心感があってこそだった。冒頭の動画のように部屋で一人でいる時に火が出て、冷静に立ち回れるかというと正直自信がない。部屋で一人でいる時に予想外の物に火がつくと、本当に焦る。私も部屋で中華鍋で揚げ物をしていた時に、油を派手にこぼして台所がえらいことになったことがある。

 パニックになるとどうしても短絡的な思考になる。例えば「火は水で消える」という固定観念しか頭に浮かばなくなると、自分の背丈ほどに大きくなった火を放置して洗面器一杯の水を時間をかけて持ってくることになる。あるいは「布団をかぶせて火を消す」と「マッチを振って火を消す」という、全くタイプも規模も違う火の消し方が混同すると、「布団を振って火を消そうとする」というとんでもない愚行に繋がる。動画の彼も、第三者のリスナー側だったら冷静に指示を出していた……かもしれない。

 パニック時の行動は平時の知識量や思考とはあまり関係がなく、知識などは「あればパニックになりにくい」という話であって、なってしまった後の行動は大抵の人が愚かになると思う。

 それから「目先の損失に目を瞑る」ということもできなくなる。さっきの飲食店の話だと「消火器を使えば今日の営業が出来なくなる」という当面の損失を嫌って消火器を使わないでいたら、店自体がなくなっていたかもしれない。

 動画の彼が、最初に火の着いたゴミ袋を奥の壁際に移動させたのは、おそらくPCの損害を嫌ったのだろうが、結果として壁に引火しやすい位置になってしまった。また布団や濡れた衣類で消そうとしなかったのも、単に思いつかなかっただけという可能性もあるが、それらが駄目になるのを躊躇ったのかもしれない。

 パニックになっているのが明らかな行動なのに一見不思議なほど落ち着いて見えるのも、リスナーに動揺を隠したかったのだろうし、すぐに消防を呼ばなかったのも同じで、おそらく大事にして恥をかきたくなかったからだと思う。そういう心理自体はよく分かる。

 予想外の火が出た時点で、何かを失うことはもう決定している。それが雑巾になるか、服になるか、布団になるか、壁になるか、家になるかは、どの段階で思い切れるかで変わると思う。

 特に私と同じく飲食店で働く人がいたら、消火器の使用と119番への通報は早い段階で決断して欲しい。壁自体は燃えにくい素材でできていても、油っ気の多い飲食店の厨房は、多分一般家庭の壁や天井より速く火が伸びていく。消火器の粉の掃除が面倒だったり、消防を呼んで大騒ぎになる程度のことは「小さな損失」に過ぎないのだ。

 

 余談だけど、あの動画が話題になってかAmazon消火器がカテゴリ1位に急浮上したそうな。消火器という切り札があれば、多分パニック自体に陥りにくいし良い宣伝效果だと思う。アパートやマンションに住んでる人も、備え付けの消火器の位置だけでも把握しておくといざという時本当に役立つ。

 

 

 私は子供の頃から火遊びが好きで、親によく叱られた。今も煙草や料理や花火やBBQが好きな理由の一つに「火を使うのが好き」というのが正直ある。今回随分自分語りになってしまったのは、あの動画を観て「馬鹿だなコイツ」と思いつつも、私なりに心に刺さるものがかなりあったからだ。

 本当はレビューしたい本が溜まっているので読書感想文書くはずが、「旬なうちに」とこっちを先に書き上げてしまった。次回こそ書くぞ。

 

 

 

 

 

 

 ところで

 火遊び好きな私が、女性の心には湿気たマッチのように着火できなくなるのは何故だろう。

  

 火は着けたい時ほど上手く着かず、燃やすつもりのない物ばかり燃やしていく。