劇場版『ハーモニー〈harmony/〉』 感想

 

 先日、劇場公開された伊藤計劃原作の『ハーモニー <harmony/>』を早速観てきた。

 私はこの原作の小説がかなり好みで、どのくらい好きかというと、単行本、文庫本、Kindle版と無駄に三度購入したほどだ。伊藤計劃はどちらかというと『虐殺器官』のほうが巷で評価が高い印象だが、好みで言えば私は断然『ハーモニー』のほうを推す。

 というわけで、公開初日に一人で映画館に乗り込むほど楽しみにしていた映画化だったが、それとは裏腹に実はそれほど出来に期待していたわけでもなかった。というのも、この作品は映像化には向かないタイプの小説だと感じていたからだ。

 

 で、実際に観た感想はというと、うん。正直、予想の範囲内で残念な出来だったと言わざるを得ない。ネット上の評判もチラッと確認してみたが、賛否両論というよりは概ね微妙な反応が多いように見える(もちろん、満足してる人も怒ってる人もいるが)。

 金返せとか、原作に謝れとか言いたくなるほど酷い出来ではないのだが、原作への忠実さにしても、オリジナルの演出にしても、色々と中途半端にまとまってしまった印象が強い。

 今回はネタバレを気にせず感想を述べていくので、小説、映画ともにまだ見てない方は視聴、読了後にまた読んで頂けたらと思う。

 

 この小説は映像化には向いていない、と述べたが、それは原作が大まかに「回想」「モノローグ」「会話」の三つでほぼ構成されていて、とにかく「動き」が少ないからだ。誰かに会いに行って、会話して、事件が起きて、少女時代の回想が入って、また誰かに会いに行って会話して……を繰り返す。アクションシーンは序盤と終盤に申し訳程度にあるのだが、映像化するにはかなり物足りない。

 しかし、だからこそ淡々と進むこの物語をどう映画化するのか楽しみではあったのだ。実際、会話のシーンなどは制作陣もかなり苦心していたことが窺える。長い会話中はとにかくキャラが動かないため、代わりにカメラをグルグル回してみたり、風景をひたすら映してみたり、原作では棒立ちで話してる主人公達をバイクに乗せて強引に動かしてみたり、と小手先の工夫は見られるのだが、あまり功を奏していたとは言いがたい。

 もちろん良かった部分もある。ピンク色に染まった薄気味悪く優しい街並みや、大都市の巨大建造物などは見応えがあったし、CGも一部使い回しっぽいシーンもあったが概ねSF感が出ていて良かった。

 ただ、全体的に中途半端な印象が拭えないのは、会話やモノローグが多い割に説明不足な点が多いせいだ。映画は小説より時間的な制限が厳しいため仕方ないといえば仕方ないのだが、映画版だけ観た人にとってはよく分からないシーンが多かったに違いない。かと言って原作ファンのために作られていたかというと、妙な百合描写が多かったり、特にラストシーンの台詞改変には眉をひそめたファンもいるのではないか。

 原作のラストは、主人公トァンが最後まで御冷ミァハを慕う気持ちを残しつつも、友人と父親を殺された恨みは捨てられず、躊躇いなく彼女を撃ち殺す。御冷ミァハの考え方に一部共感し、彼女の望む世界は受け入れる。しかし彼女への罰として、彼女自身にその世界は見せてやらない。というものだ。

 映画版でトァンがミァハを撃ち殺した際の台詞はこうだ。

「私の好きだったミァハのままでいて欲しかった。愛してる」(うろ覚え)

 

 原作の二人の関係は友人とも同志とも信仰対象とも恋人未満ともつかない、かなり微妙で、故に絶妙なものだった。映画版では一部の需要を狙ったのか、単に監督の趣味なのかは分からないが、性愛寄りの描写が多い。個人的にそれ自体どうということもなく、嫌悪するほどの要素ではないのだが、映画として改変すべき点はもっと別にあったのではないかと思ってしまう。

 

 そもそもエンターテイメントとしてはいささかダイナミックさに欠けるこの原作小説は、どのあたりが評価されていたのか。いや、それ以前に伊藤計劃という作家は何故高い評価を得ていたのだろうか。

 それはこの作者が若くして死んだからだ、と身も蓋もないことを言う人間も少なくない。私もそれが理由の一つであることは否定出来ないと思う。彼の作った世界観やSF的ギミックなどはそう革新的なものでもないからだ。

 しかし私は伊藤計劃という作家の真髄は「語り」の技術にあるのではないかと思う。私の最も好きなジャンルはSFなのだけど、はっきり言ってSF作家は他ジャンルに比べて「語り」に無頓着な作家が多い。例えば、ミステリであれば「語り」そのものがトリックとして機能していたり、ホラーであれば恐怖の演出に一役買っていたりする。純文学などは言わずもがな、語りこそが最も重要といって過言ではない。

 しかしSFというジャンルはその特性上、語り手が単にナレーターに徹していることが多い。語り手は世界観の解説や物語の司会進行をこなしていればいい、と考える作家が多いのか、ナレーターに特化するにしても雑さが目立つ。

 例えば、語り手が現在の人類とはかけ離れた未来人であったり、異星人であったりするはずなのに、現代人とほぼ同様の価値観で物を語っていたり、逆にそれらの存在にとって自明であるはずの物や概念を懇切丁寧に説明したりする。無論、全ての作家がそう無自覚なわけではないが、他ジャンルに比べて全体的な技術の低さが目立つ上、「SFだから」という理由で評論家にもそしてファンにも、それが大目に見られてきたように感じる。

 そんなSF界隈に現れたのが飛浩隆円城塔、そして伊藤計劃という巧みな語りの技術を持つ作家達だ。

 

 この『ハーモニー』という作品がいかに語られていたかということは、結末で明らかになる。映画だけ見て分からなかった方のために簡単に解説すると、

 

 人類の脳内には予め『調和(ハーモニクス)』のプログラムが施されており、社会が再び〈大災禍〉に陥った際の最後のセーフティネットとして発動することができる。

 これは、人の脳内における葛藤や欲求の対立を全て〈調和〉するというもの。これによって混乱を鎮められるが、副作用として人類から意識(自我)が消滅する。

(作中において人の「意識」とは、脳内における欲求や関心の対立構造そのものを指すと解釈されている。意識があるから欲求の対立が起こるのでも、この対立の結果出された結論が意識となるのでもない。この脳内において開かれる「会議」そのものが人の意識なのである)

 そして御冷ミァハの目的とは、意図的に社会に混乱を起こすことで「偉い人達」にこのプログラムを発動させることであった。そしてラストで彼女の思惑通り、人類は無事哲学的ゾンビとなって世界は平和になったのであった。めでたしめでたし。

 

 という結末を観た後で、視聴者(読者)は、ようやくこの物語が実は「意識を持たない存在」によって語られていたことを知るわけだ(鋭い人は冒頭で気付くかもしれない)。伊藤計劃の著作では度々このような「自律的な言葉」が登場する。

 言葉というのは話者に意図や感情などなくても、いや話者など存在していなくても、意味を持って存在できてしまう。この『ハーモニー』において語られた「言葉」はただ機械的に出力された文字列に過ぎず、そこに話者の意図や感情などなかった。しかしそれを見た我々は、そこに「意味」「意図」「内面」「感情」などを過剰に見出してしまう。こういった「言葉」への嗅覚、「語り」への配慮こそ、伊藤計劃作品の醍醐味なのである。

 だとすると、一見この作品はますます映画化には向かないものに思える。原作小説においては地の文の随所にHTML形式の文章が出てくる。これらはこの文章が機械的な存在によって出力されたものであること示しているのだが、これは文章を媒体とする小説の特権的な表現だからだ。

 もちろん、映画版にも冒頭とラストにそれを示唆したシーンが登場するのだが、表現としてやはり十分とは言えない。ただ、これが元々小説で書かれたものであった以上、小説という媒体がこの物語を語るのに最も適しているのは当然ではないか。と思えてしまうのは仕方ない。 

 伊藤計劃の意図した「自律的な言葉」を表現するのに、確かに小説という形は最も適している。しかし、映画だろうと漫画だろうと言葉を扱う以上、文章作品以外においてもそれが実証されることが表現されるべきではないか。だからこそ「小説」という媒体は、むしろ伊藤計劃の意図に適しすぎていて「ズルい」とさえ言えるのだ。難題あることは承知しているが、映画でこそこれを強調して表現して欲しかった。

 

 この映画への感想として「モノローグが多すぎる」という声が結構見受けられる。私にも、単に映像作品として語り手の独白だらけでは退屈だというのは理解できる。しかし、私はむしろ、この映画はもっとモノローグだらけでも良かったとすら思う。上述のようにこの作品はモノローグこそが最も重要だと思うからだ。

 実際に公開された映画は、劇中少しでも人物を動かそうという工夫が試みられてはいるのだが、結果として退屈さを拭えているとは言い難い。ならば、中途半端に「語り」を省略したりせず、退屈なのは上等でもっと語りまくっていたほうが原作に忠実で、しかも個性的な映画になったのではないか(ウケるかはともかく)。

 あるいは針を逆に振っても良かったかもしれない。つまりもっとエンターテイメント性を重視し、オリジナルのアクションシーンなどを盛り込んで映像作品として映えるものにする。それで怒る原作ファンには「うるせえ!そのまま映像にしたら退屈だろうが!」と居直るくらいの態度でも良かったんじゃないかと個人的には思う。

 

 思い出してみてほしい。この作品のオチは必ずしもバッド・エンドだとは言い切れない。人類は自我を失ったが、故にそれを自覚することもなく、争いも格差もストレスも葛藤も完全に調和された平和な世界で幸福に暮らしていくのだから。

 しかし、そのいきさつを外部から見ていた視聴者は、この行く末に言い知れぬ虚しさを感じたはずた。彼らからは人間として大切なものがポッカリ抜け落ちてしまったように思ったはずだ。

 結局、この『ハーモニー〈harmony/〉』という作品は、作中で何度も「調和」という言葉を繰り返すことで、むしろ人間とは切っても切れない「対立」を浮き彫りにし、そのタイトルとは裏腹に「人間の本質は対立にある」ということをどうしようもなく表してしまった作品ではないのか。その対立を全て調和させてしまったから人類は空虚な存在になってしまったのではなかったか。

 

 だとするなら、そんな作品を映画化する上で重視すべきは「調和」ではなく「対立」であるべきだったのではないか。

 この映画を作るにあたって様々な葛藤があったことは容易に見て取れる。伊藤計劃という、本人もおそらく望まなかった程のカリスマ性を得てしまった作家の遺作、その原作ファンを裏切ってはいけないという思いがあったに違いない。一方で、そのまま忠実に映像化しては動きがなくて困る。解説ばかりでは退屈だし、かと言って省略しすぎても映画だけ見た人が理解できない。映画版だけのオリジナリティもどこかに欲しい。

 こういった様々な葛藤の対立を、どれかを切り捨ててどれかを重視するというやり方ではなく、この映画は、結局それぞれの思惑や視聴者の期待を「調和」させる形で完成させてしまった。

 誰かを楽しませる代わりに誰かを怒らせるような映画を作るくらいなら、誰もがそれなりに納得できるよう無難にまとめてしまおう。おそらくそんな制作方針で作られたであろうこの映画は、

 基本的に原作に忠実、故の動きのなさは小手先の演出でカバー、解説やモノローグは大筋だけ理解できる程度に最低限入れ、本筋に影響ない程度に百合要素を強くしてオリジナリティを出す。という、なんとも掴みどころのない仕上がりになってしまった。

 中途半端な印象を最後まで拭えなかったのはそのせいだと思う。もっと賛否両論ある作りで、視聴者同士が「対立」するようなものを私は見たかったのだ。

 

 私は映画にそれほど詳しくもない素人だし、興業だということを考えず勝手なことを言ってるだけだ。観る人が観れば、もっと評価すべき点があるのかもしれない。

 

 しかし、私が個人的にこの映画の感想として述べたいことはただ一つ、

 

 この映画に、調和〈ハーモニー〉はいらなかった。