【映画感想】とにかく『ブレードランナー2049』が最高だった。

 

 

 今年一番の楽しみであった『ブレードランナー2049』を観たのだけど、これが期待以上の出来で驚いた。

 ヴィルヌーヴ監督に対しては『メッセージ』の出来の良さから「この人が作るのなら」と、ある程度の期待と信頼をしていたのだが、それでも正直、カルト的なファンを持つ『ブレードランナー』の続編ともなると、いくらか尻込みした無難で当たり障りのない凡作(良くて佳作)になってしまうのではないかと憂慮もしていたのだ。

 当ブログは基本的にネタバレ全開の感想なので、未視聴者はご注意を。

 

 

 実を言うと、本編開始後も主人公の人物像が明かされてくるまでその不安は拭えなかった。さすが『メッセージ』を作った監督、おお!広大な農場地帯! そして進化した都市の背景! ああ美しい……

 あれ? でも、なんか全体的に均整がとれすぎじゃないか……?『ブレードランナー』の世界って、もっとこう……雑多で品がなくて、でもどこか蠱惑的で、退廃的なのにエネルギッシュで、とにかくジャンクな情報が目に流れ込んでるような、そういう混沌とした魅力のある世界じゃなかったっけ……?

 一部の街並みに雑多とした賑わいは残しつつも、建物の内部にせよだたっ広い空間が多く、棚がズラッと整列していたり、きちんと左右対称にオブジェが並んでいたりで、どのシーンの背景も美しいが恐ろしく淡白に感じる。これはこれでいいのだが、割りとありがちなディストピアSF的世界観の型にハマってしまったようで『ブレードランナー』としての魅力は損なわれてしまったような淋しさも感じたわけだ。30年でこうも変わってしまうのか、と。

 しかし、主人公Kの人となりが分かってくれるにつれ、だんだんとこの景色に納得がいくようになってくる。

 

 そもそも、思い返せば前作『ブレードランナー』の世界観とは、ただそれだけが魅力的だったわけではない。前作の主人公デッカードの捉え所のない人物造形と、彼の複雑な心理、葛藤が、混沌とした街並みとマッチしていたからこその妙味があったのだ。正義なのか権力の犬なのか、勇敢なのか臆病なのか、そして人間なのかレプリカントなのかさえ定かでない(話によるとファンどころか制作関係者の間ですら意見が割れてるとか)、逆を言えばそのような掴みどころのない人物だからこそ、あの世界の主人公に相応しかったと思えるわけである。

 その点、今作の主人公Kは最初からレプリカントであることが明言され、人間の命令に従順でどこか無機質さが漂う。しかし、心を持っているが故にその内面の秩序は完全ではなく、やはり設計された従順さと自身の感情との齟齬に葛藤を抱えることになる。

 大まかな秩序の中に残る根強い混沌、それがKの人物像であり、まさに今作の世界観そのものでもある。作中マダムが口にした「秩序」という言葉が示す通り、人間達の目的とは混沌の原因たるバグを排除し世界の秩序を取り戻すこと。しかし、その役割を果たすはずだったK自身が心の中に混沌(バグ)を秘めているからこそ、物語を動かす主人公足り得るわけだ。

 

 そのような解釈で今作の世界観に得心した私は、安心して映像美と物語を堪能していたのだが、「世界観」に続き今度は「物語」に度し難い展開を突きつけられることになる。

 前作のヒロインであるレプリカント、レイチェルが出産していたというのである。

 

 いや、何もアンドロイドが子供を産む展開がおかしいとか意外だとかというのではない。生殖機能如何というテーマはアンドロイドSFとセットみたいなものだからだ。

 そうではなくて、『ブレードランナー』ファンとして驚くと同時に一旦は眉をひそめざるを得ない展開なのだ。

 既視聴者には語るまでもないことだが、前作がどのような形で幕を閉じたかと言うと(これはバージョンによって多少の違いはあるのだが)標的であるはずのレプリカントを愛してしまったデッカードが、彼女と共に逃亡するという幕切れである。

 しかし、一見グッドエンドに見えるこの結末は、彼女の4年という儚い寿命を考慮すれば、間もない死別という悲劇を内包したものであることが明白であり、また彼女がレプリカントであるが故に子を残すこともできないという事実が、この俗に言うメリーバッドエンドに拍車をかけ、さらには彼らの愛を生殖本能から切り離されたより純粋で尊いものにしている……かどうかはともかく、味のある結末となっているわけで。

 

 この記事の初めに私は「『ブレードランナー』という看板の重さに監督が尻込みしてしまうのではないか」などとトンチンカンなことを抜かしていたが、とんでもない杞憂であった。

 レイチェルが身ごもっていた。この展開は、前作で彼らの行く末、限られた時間を二人がどう過ごすのか、その後一人残されたデッカードはどう生きていくのか、などと思いを馳せていたファンに対する、公式からの強烈な「正史」のぶちかましである。是か非かに関わらず驚かされるのは無理もないだろう。そういったことはどの作品の次回作でもよくあることではあるが、これは待ち望まれたり望まれなかったりした名作の、35年ぶりの新作なのだ。そこで平然とやってのける監督の肝はあぐらをかいて座っているに違いない。

(ちなみに「肝がすわる」は「据わる」であって「座る」は誤り。比喩です比喩。)

 

 この展開を批判するファンもいるかもしれない。が、私は腑に落ちるよりも先にそこからの滑らかな展開にただただ脱帽してしまったのだ。

 レプリカントであるレイチェルが妊娠した理屈は一切説明がなされない。ただ「奇跡」だとしか。それは何故か。おそらく本当に奇跡だからである。

 彼女がデッカードと生殖行為を行ったかについては全く語られないが、おそらくなかったと私は解釈している。人間の世界でも処女懐胎で有名な人物がいる。無論のことキリスト教におけるキリストの母、マリアだ。レイチェルとその子に対するレプリカント達の崇拝ぶりは人間界のマリアを模したものであることは多くの人が感じたことだろう。

 根拠はもう一つあって、前作『ブレードランナー』でデッカードが観たユニコーンの夢、そこから着想を得て引っ張ってきたシナリオだと考えれば合点もいく上に、後付にはなるが遡って長年謎とされていた前作のあの夢のシーンの説明にもなる。

(ご存じない方のためにつけ加えておくと「ユニコーン」は処女を好むとされ、その純潔のイメージから処女のマリアに宿ったキリストに例えられたりする、らしい。獣の分際で処女厨とは難儀な……)

 

 こうして、物語は所在の知れないレイチェルの子を巡って動いていくわけだが、そこでもう一つ前作の設定である「偽りの記憶」というトリックを組み合わせて一捻り加えた展開にしてくるのが、もうニクいとしか言えない。

 Kは自身の持つ記憶が偽物だと信じていたが、それは「作られた記憶」ではなかった。そこで自分こそがデッカードとレイチェルの子供であり、人造人間ではなく生まれ落ちた生命だったという確信を困惑とともに受け入れたのもつかの間、結局その記憶は「作られたもの」ではないが「他人から移植されたもの」だったという残酷な話の中で、Kはレプリカントとしての自身のアイデンティティを一度破壊され、その後再構築するに至る。

「自己像の破壊と再生」というテーマはSFに限らず多くのフィクションが取り扱ってきたが、ここまで直接的で身も蓋もないものはアンドロイドSF特有のものだろう。

 しかもその流れの中で、自分がデッカードの息子だという誤った認識を抱いたタイミングで前作主人公であるそのデッカードが登場する。物語の展開的にもファンサービスとしても上手いもんだと。さらには、自分の記憶の真偽を調べてくれた女性こそがレイチェルの本当の「娘」だった。まぁ、これは彼女が涙を流す理由を考えれば予想がつくのだけど、この一連の流れには登場人物に一切の無駄がなく、ただただ美しい。

 

 そんな物語展開に感嘆の連続だったのだが、終盤に近づくにつれ、一つの疑念が生じる。それは『ブレードランナー』というタイトルについてだ。確かに主人公Kの作中の肩書は「ブレードランナー」である。しかし、彼がその職務であるレプリカントの排除をしっかりこなしたのは冒頭のシーンのみ。作中の大半は何か探しものをしている。あとは最期に討ち取った社長秘書だが、あれも本来の職務に則ったものとは言えない。

 Kは人物造形、それを演じる俳優共に素晴らしい主人公だが「ブレードランナー」としては前作主人公に比してその肩書の意味を感じられずにモヤモヤしたのだった。

 そもそも「ブレードランナー」という言葉の由来もよく解らない。解らない時は勝手に解釈するに限る。というわけで「ブレードランナー」とは何たるかを作中設定の話ではなく、物語上どのような役割を負った人物を指すのかという視点で考えてみる。

 思えば前作も今作も『ブレードランナー』の主人公は、実は大したことをしていない。SF作品の主人公は大抵世界を救ったり種の命運をかけて何かに挑んだりするのだが、デッカードはただ寿命の延長を望んだレプリカントを破壊した末に、愛する女と共に逃亡しただけである。Kもまた、成し得たことと言えば生き別れた父と娘を再会させたことくらいであり、世界のどの勢力の救世主になることもなかった。

 

 しかし、その共通点こそが『ブレードランナー』の真髄なのかもしれない。二人は共に自らのあり方と世界に疑問を抱き葛藤を抱えながら、デッカードは標的に命を拾われ、Kは偽の記憶に振り回されて、自己を再構築して見つめ直す。そして最後には様々なしがらみを断ち切って自らが望むもののために行動する。そういう男の生き様を描いたのが『ブレードランナー』なのではないか。

 完全に私の勝手な解釈だが、少なくとも本作の主人公Kが、前任者のデッカードとは結局赤の他人ではあったが、彼のその「魂」だけはしっかり継いでいた、と捉えるくらい構わないではないか。

 

 

 などと、絶賛しきりで申し訳ないのだが、この映画が全体的に「ファン向け」であることは否定できない。名作とはいえ前作が35年前の映画だ。若い人にウケないのも無理はないかもしれない。今となってはアンドロイドSFにも類似の作品が溢れているし、その中で特に今作が革新的なアイデアやテーマ性を持っているわけではないからだ。

 ただ、例えば本作を見てギミックが古いと思ったり、現実の30年後を想像してリアリティに欠けるなどと思うのは単純に勿体無いので是非、前作『ブレードランナー』を観てからもう一度『2049』を観て欲しい。

 前作の舞台は2019年だ。つまり現実の今から僅か2年後に当たるわけだが、人類が既に別の星に移住し、車が空を飛び、人そっくりのアンドロイドが製造されいる。にも関わらず、スマホはおろか携帯電話すら存在せず、ブラウン管のモニターに緑の文字が踊り、会社員が煙草をふかしながら勤務しているようなチグハグな世界だ。そんな世界から30年後だ。現実と比べてどうの、他作品と比べてこうの、という感想がいかに的外れなものかお分かりいただけるはずである。

 

 

 キリがないので、そろそろまとめると、

 

 木の根っこにレイチェルの亡骸を見つけるところから前作ファンの心を掴み、そこから、彼女の懐妊、自身の記憶への疑念、それを探る中で壊され作り直される自己意識、本当に30年分老けた前作主人公の登場と、明かされる彼の本当の子供、全てを知ってなお自分の偽の記憶の主と父親を再会させるブレードランナー根性溢れる主人公、自身で見つけた役目を全うしたレプリカントが静かに横たわるラスト。

 前作の設定を活かしつつ大胆な設定まで付け加え、それでいて破綻のないこの美しい物語展開。生命とは、正義とは、記憶とは、自己とは、愛とはetc. 新しさはないがこれでもかと盛り込まれたテーマ性。散りばめられた前作のファンサービス、(あと超可愛いヒロイン)を2時間40分、SFファンのツボを抑えた壮麗な風景を伴って堪能させられるわけだよ。

 

 

 

 『ブレードランナー』の続編としてこれ以上何を望むのか。いや望むまい。

 

 

 (た◯き監督風に)ヴィルヌーヴ監督ありがとう。

 

 

 

  おわり。