『さよならの朝に約束の花をかざろう』 解釈と感想

 

 

 先日公開された長編アニメ映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観てきた。私は、あまりアニメや映画を観て泣きたいと思うタイプの人間ではないので、同じスタッフが制作した「泣ける」と評判の『あの花』も『心が叫びたがってるんだ』も観ていないのだが、本作は予告編を見る限り割りと本格的なハイファンタジーものなのではという印象を受け、興味を引かれたのだった。

 ところが、本編を観て受けた印象は、ファンタジーとしては月並みでやや肩透かしを食らい、表向きのテーマである親子愛そのものにもあまり心を動かされなかったというのが正直なところだ。

 が、にも関わらず、私は早くも本作が2018年のベストアニメ映画候補なのではと思うほどに満足感を得てしまったのである。その要因はこの映画のストーリー構成にある。

 当ブログは基本的にネタバレ全開で観終えた後の人に読んで頂くことを想定して書かれているので、未視聴の方は視聴後にまたお越し頂けると幸いである。

 

 

 この映画がどのように構成されていたか考える上で重要なキーワードが、作中で随所に登場する織物「ヒビオル」にあることは多くの観客が感じたことだろう。このヒビオル、恐らく「日々を織る」という日本語からきているネーミングだと思われるが、冒頭でこのような説明がなされている。

 

 ヒビオルの縦糸は「時間」を横糸は「人の生業」を表す、と。

 

 この説明を聞き、さらに主人公が不老長寿の種族であること受け、この物語がどのように語られるかピンときた人も多いはずだ。

 この映画は、その上映時間120分の中で、一人の赤子が老衰するまでの数十年という長い時間を描く。注目すべきは一度登場した主要人物のほとんどが、数年の時を経て再登場するという点だ。

 つまり、作中のこの数十年という時間を縦糸・・とし、その中で登場人物たちが出会い、別れ、そして再会し、また別れを繰り返すことで横糸・・を紡ぐ。このような構成によって、この物語そのもので「ヒビオル」という織物を体現しているわけだ。だからこそ冒頭にその説明があったわけである。

 このことが分かり易く現れるのは、横糸として描かれた人物達の関係よりも、むしろ横糸になることができなかった人物達の関係に見て取れるだろう。

 その人物達とは、作中で最も悲痛な親子として描かれていた、レイリアとメドメルの二人である。実の親子でありながら本編の最終盤、その別れの間際に初めて、そして束の間の邂逅を果たした彼女達だが、母親であるレイリアが娘のメドメルに向かってかけた言葉は「私のヒビオルにあなたのことは刻まない」というようなものであった。

 これは、異種間に生まれてしまった娘や自分の運命に対する様々な心境が窺える台詞ではあるのだが、むしろヒビオルという織物の性質から見れば致し方ないものだともとれる。ほんの一瞬であった彼女達の出会いは、この時間軸上に「点」としてしか存在せず、そしてこの先二度と会うこともないのだとすれば、それが「線」として横糸になることもないわけである。

 

 この映画を観て涙を流す人の感性を私は決して否定したりはしないが、このエントリの最初に述べたように、私個人はあまり映画を観て泣いたりする質ではないので、表の向きのテーマである「親子愛」や「寿命の異なる異種間の悲劇」といった要素にはあまり心を動かされなかったし、仮にそういった点に注目して観ていたとしても、回想シーンがややクドい点などはいささか演出過剰なのでは、というのが正直な感想である。

 しかしながら、冒頭のヒビオルの説明を受け、早々にこの物語そのものがおそらく織物のように紡がれていくであろうことを察知した私としては(そのせいで見方に幾分がバイアスがかかっていたきらいはあるが)その観点から見て、本作は大きな綻びもなく美しく織り上がった秀作ではないかと思うわけである。

 

 

 ……というのが本作を観終えた後のザックリした所感であったのだが、

 考えてみれば、ある程度の長い時間経過を描く物語の中で、主要人物達が出会って別れて再会するなんてことは当たり前のことなんじゃないかと。現実ならばともかく、フィクション世界においては、例えば幼少期に出会い、ある程度の描写がなされた意味ありげな人物が、後に一切登場しないなんてことのほうが不自然なわけだ。

 それを踏まえてこうは考えられないか。この作品は「ヒビオル」というキーアイテムを殊更強調して観客の意識に植え付け、その上で物語の構成そのもので「ヒビオル」という織物を表現してみせた。

 しかしそれは実は「物語そのもので織物を織り上げました」ということではなく「そもそも物語とは織物のようなものだ」ということを表したかったのではないか。だとするなら、物語で織物を表現するというのは前提にすぎず、本当に描きたかったのはそこからもう一歩踏み込んだテーマではないのだろうか。

 

 それを考える上でひとつ取っ掛かりとなりそうなのが、主人公マキアが属する種族「イオルフ」だ。人と似た外見を持ちながら、不老長寿であり、ヒビオルを織ることを生業としているということ以外、作中でほとんど情報の明かされない彼らだが、逆を言えば、それ以外のことは描写する必要がなかったのではないかとも言える。

 この映画が、物語そのもので「ヒビオル」を体現しているということは既に述べた。これはつまり作中の「ヒビオル」とは「物語」のメタファーだということだ。

 ヒビオルが「物語」だとするなら、その物語ヒビオルを紡ぐ彼らイオルフの民とは、即ち「語り手」だということにならないだろうか。

 

 語り手は孤独である。

「語り手」のイメージがいまいち掴めない方は、例えば三人称小説における地の文を語っている誰かを思い浮かべてみるといい。彼らは主人公がどれだけ幸福な結末を迎えてもその輪に入ることができず、登場人物がいかなる悲痛な運命を辿っても救いの手を差し伸べることを許されず、ただそのいきさつを傍観し「語る」のみだ。

(ここでは分かりやすさのために三人称小説を挙げたが、一人称小説がその例外というわけではない。「私」が語り手と主人公を兼ねる一人称小説にも、語る「私」と語られる「私」の間には確かな断絶が存在するためだが、その解説は長くなるのでまた機会があれば別のエントリで)

 

 この映画の主人公はイオルフの女性マキアである。しかしその実、この作品の中心に据えられている人物が彼女の息子エリアルであったことに気づいた人は少なくないはずだ。先に述べたように、この作品が焦点を当てる時間は、彼が生まれて死ぬまでの数十年間なのだから。

 この物語の実質的な主人公はエリアルであり、マキアとは本来彼の物語(人生)の語り手であったはずなのではないか。ところが、この映画は表舞台にでることがないはずの「語り手」に敢えてイオルフという実体を持たせ、さらには彼女を主人公の大役に抜擢したのである。

 つまり、本作は「『エリアルの物語』の語り手であるマキアの物語」という入れ子構造になっている。故にこの映画は、親子の関係を中心に描いた物語であると同時に「登場人物」と「語り手」との関係に焦点を当てた物語とも解釈できるわけだ。

 

 相変わらず私の勝手な解釈ではあるが、これを裏付ける根拠はいくつかある。

 まず、イオルフの民の長ラシーヌは「外の世界に出たら、人を愛してはいけない」と釘を刺すわけだが、彼女は外の世界に出ることそのものを禁じてはいないし、誰も愛さない傍観者ではいられるということだ。「愛する」とは、恋愛にせよ友愛にせよ、人となんらかの関係性を築くということであり、多かれ少なかれ彼らの運命・・に干渉・・・する・・ことを意味する。それを禁ずるこの掟は、そのまま物語の語り手が背負う禁忌と合致する。

 また、イオルフの民の不老長寿という性質は、物語の時間の外にいる年齢の概念をもたない語り手の特徴とも近似するし、ヒビオルの商人であるバロウがテントの中の孤児に手を差し伸べない理由(愛さなくとも人里に連れて行くことくらいはできたはず)や、マキアがその赤子のエリアルを抱いて「この子は私のヒビオルです」と語気を強める場面にも、一定の説得力が出てくる。

 冒頭からマキアが抱いていた漠然とした孤独感とは、まさに語り手が持つ孤独、もしくは語り手でありながら、エリアルと出会うまで「語るものを持っていなかった」ことに対する孤独感だったのではないか。

(ところで、このマキアとエリアルの邂逅シーンに居合わせたバロウが、語る者【イオルフ】と語られる者【人】のハーフであるという設定は何とも示唆的である)

 

 そもそも、この映画のテーマは何故「親子愛」だったのだろうか。単に寿命の異なる種族間の悲愛を描きたいのであれば、男女の恋愛でも、友人間の友愛でも構わなかったはずだ。

 その理由は無論、単に作り手が親子愛を描きたかったのだという動機だけで十分説明がつくし、シングルマザーが増えている現代社会の世相を反映したものだとしても何ら不自然ではないのだが、もしもこの映画に「語り手と登場人物の関係性」という裏のテーマがあったと考えれば、そのために描かれる愛は「親子愛」が最も適切なのである。

 本来、絶対に関わることのない語り手と登場人物、その両者の関係に敢えて焦点を当てて描こうとすれば、それは必然的に彼らが互いに関わり・・・合って・・・しまう・・・という、言わば「物語の禁」を犯す物語となる。その場合、その犯す禁忌は大きければ大きいほどストーリー性は強さを増す。

 子供、それも生まれて間もなく親を失い、早々に死にゆく運命にある赤子を救うばかりでは飽き足らず、更には母親としてその子を育てるという行為、それは「登場人物の運命に干渉してはならない」という掟を持つ語り手の、想像しうる最大級の禁忌というわけだ。語り手としてのその罪の重さは、恋人や友人関係とは比較にもならない。

 

 語り手と同様、登場人物にもまた破ってはならないルールがある。それは語り手を味方につけようとすること、いや、それ以前にその存在を察知し、自分が「語られる存在」であることに察してしまうこと自体がかなりグレーゾーンなのだが、本作は作中にイオルフという語り手を配置してしまったことで、こちらの境界も破られ、あっさり攻め込まれてしまう。

 そうして、この映画は語る者(イオルフ)と語られる者(人)が互いに禁を犯すところからストーリーが動き始めるわけだが、先に述べた通り以降はマキアの息子エリアルが中心となって進行していく。

  マキアはエリアルと出会ったことで、ようやく彼の物語の語り手になることができたが、彼の本来の物語はあまりに短く悲痛であったために、語り手の禁を破ってその運命を変えてしまう。登場人物に干渉してはならない語り手と、子に干渉しなければそれを名乗る資格のない母親は、どうあっても相容れない二役なのだ。

 故にマキアも、そして成長したエリアルも、「親子」であり「語り手と登場人物」でもあるという互いの関係と距離感に葛藤を抱えながら物語の横糸を紡いでいくことになる。

 

 では、そうして描かれていくこの「親子」そして「語る者と語られる者」の物語はどのように結着がつくのか。私がこの映画を推す理由の大半が、この結末の美しさにあると言っても過言ではない。

 

 エリアルに子供ができたと同時にマキアは彼の前から姿を消し、年老いた彼が死の淵にある頃になってようやくその姿を見に戻ってくる。

 子供が親よりも先にこの世を去る。たとえ種族の寿命の違いはあっても、たとえその子供が大往生であっても、その死を見せることが最大級の親不孝であることに変わりはないはずだ。だが、その様子を彼女は敢えて見に戻ってくる。

 これは彼女自身が招いた因果であるからだ。自分の子供の死を目にすることは、語り手としての責務であると同時に、かつてその禁忌を犯してしまった彼女が負うべき代償、自らへの罰なわけだ。

 しかし一方で、動乱の時代を生き延びて子をもうけ、その子孫に見守られながら老衰によって穏やかにその生涯の幕を下ろすエリアルの物語、その結末はこの上なくハッピーエンドであり、その語り手だったマキアにとってもそれは至上の幸福だったに違いない。

 

 つまりはこういうことである。

 語り手・・・として・・・の禁忌を犯したマキアは、母親・・として・・・の不幸という形でその報いを受け、

 同時に母親・・として・・・の役目を全うした彼女は、語り手・・・として・・・その冥利を得たのである。

 

 この物語上の因果応報は、語り手と母親という相反した役割を兼任した主人公、マキアが紡ぐそれの結末として非常に納得のいくものであるばかりか、糸の交わり・・・を鮮やかに想起させるこの因果の交差・・は「織物」を表現したこの作品の結びとしてあまりに美しいではないか。

 

 勝手にハイファンタジーを期待して観に行った私はいささかの肩透かしを食らうと同時に、それを遥かに上回る想定外の収穫を得た気分になって劇場を後にすることができたのだった。

 相も変わらず作り手が想定しているかどうかも判らないような解釈を好き勝手にやってる当ブログだが、1の描写から10の解釈を引き出せる懐の深さがあってこそ優れた作品だと私は思うし、1の物語から10の解釈ができる人ほど得な受け手はいないと思っている。

 この記事が『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観た誰かにとって、違った味わい方の手助けになっていれば幸いである。

 

 

 

 

 

 さて、やや長い余談になるのでどこに挟もうか悩んだのだが、この文章を描いている途中でどうしても一つ気になったことがある。それは作中で一切関わり合いのなかった二人の人物、ヒビオルの商人バロウと、レイリアの娘メドメルについてだ。

 作中で顔を合わせることのなかったこの二人には、彼らだけが持つ共通点がある。それは二人が両者とも人とイオルフのハーフであるという点だ。

 しかし、彼らにはまた決定的な違いもある。その容姿を見てわかるように、バロウはイオルフの特徴を色濃く受け継ぎ、メドメルは人としての外見を強く継いでいる。

 そして彼ら「人」と「イオルフ」の間の子を「語られる者」と「語る者」の間に生まれた者と解釈するなら、この二人の設定が非常に興味深いものに思えてくるのだ。

 イオルフ、つまり「語る者」としての血を色濃く継いだバロウは、事情通めいた傍観者として物語の所々に登場してはマキアにそれとない助言を与える。しかし人の血が薄い、つまり「語られる者」としての特性の弱い彼自身の素性は作中でほとんど語られ・・・ない・・わけである。

 一方で、「語られる者(人)」としての特徴を強く継いだメドメルは、レイリアとイゾルの実子であるという素性が明らかで、彼女の哀しい境遇も伝わってくるのだが、彼女は「語る者(イオルフ)」の血が薄いがために、見事に極端な箱入・・り娘・・として育てられている、ということになる。

 まぁここまでくると私自身も流石にただの深読みかなと思えてくるのだけど、もしもこのように細部まで考えられ、練られた設定だとすれば、本作は近年稀に見る怪作アニメ映画なのかもしれない……。