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劇場版『夜は短し歩けよ乙女』 感想

 

 先日公開された森見登美彦原作『夜は短し歩けよ乙女』の劇場版を観てきた。

 私は森見登美彦の特別熱心なファンというわけではないのだが、彼の作品は半数以上は読んでいるし、私自身が京都で学生時代を過ごしたことなどもあって、好きな作家の一人ではある。

 ただ正直、この『夜は短し歩けよ乙女』の映像化をそれほど待ち望んでいたわけではなかった。

 原作が130万部発行の大ヒット作だけに、数多くいるファンから怒られそうなのだが、個人的意見として、この原作小説は森見登美彦の作品群の中ではあまり出来がいいとは思えないのである。

 映画の感想の前に、まずは私が何故この原作小説をそれほど良く思えなかったをお聞き願いたい。

 

 この作品は原作も映画も4つの章で構成される。一章は夜の先斗町、二章は古本市、三章で京大の学園祭と舞台が移っていき、四章では風邪をひいた登場人物たちを「乙女」が見舞って回るのだが、このうち、一番盛り上がるのが一章なのである。

 物語全体のいわば「起」に当たる部分が一番勢いがあるというのは珍しく思えるが、それはこの作品のテーマを考えてみれば納得がいく。

 本作は一見すると「冴えない先輩」と「無邪気な乙女」のラブストーリーがメインであるように紹介されることが多いが、その実、面白さの本質的な部分は、酔っ払った登場人物たちによるドタバタ群像劇にある。

 そんな作品を鑑賞するにあたって読者観客の理想的な態度、そのキモは「一緒に酔っ払う」ということだ。

 つまり、この作品の一章とはいわば飲み会の「一次会」であり、少し落ちつた展開の二章は「酔い覚まし」再び盛り上がりを見せる三章は「二次会」登場人物たちが風邪でダウンしてしまう四章は宴もたけなわな「グロッキー」状態だといえる。故に本作の成否を握る最も重要なポイントは「乙女と愉快な仲間たちが夜の街を飲み歩く一章で、受け手を一緒に酔わせることができるか」という点にある。

 この「読者を酔ったような感覚にさせる」のは森見登美彦の得意とするところだろう。彼の最大の武器ともいえる小難しい言い回し、古臭い表現を交えつつもユーモアに溢た読みやすい文体、現実と幻想の境界が曖昧になる世界観、どこか浮世離れしたユニークな登場人物達、などはまさに読者を酔わせるのにうってつけであると言える。

 

 にも関わらず、私は酔えなかったのだ。この『夜は短し歩けよ乙女』という小説に。その原因はまさにこの作品の著者が「森見登美彦」だったからである。何を言ってるんだと思われるかもしれないが、この作品内で遺憾なく発揮されている魅惑的な文体、世界観と登場人物造形、どれをとっても結局は「いつもの森見登美彦」だったからだ。

 もし私がこの『夜は短し歩けよ乙女』で初めて彼の作品に触れたのであったなら、彼の作り出す幻想的な京都の街と目まぐるしく動く物語に陶酔できたのかもしれないが、恐ろしく完成度の高いデビュー作『太陽の塔』から、続く秀作『四畳半神話大系』『きつねのはなし』と順に追ってきた私にとっては、普段通り(シラフ)の世界でしかなかった。

 読んでいた当初は二章以降が蛇足であるように思えていた。全編通して一番面白い先斗町の夜をもっと濃密に描いて、最後に物語の「ボス」である李白と飲み比べするっていう展開で良かったのでは……。などと考えていたのだが、今にして思えばそれは間違いで、この一章で「酔えなかった」からこそ、二章以降が物足りないただの後日談のように感じてしまったのだ。 

 

 ようやく劇場版の感想に入るが、そんな原作を元に作られたこの映画はどうだったのかというと、

 結論からいって素晴らしかった。

 

 それほど期待していなかっただけに「あれ?原作こんな面白かったっけ?」と自分の記憶を疑ってしまったほどだ。

 誤解されそうだが、私は決して原作を腐して映画の方を持ち上げるつもりはない。むしろ、私が「楽しみ損ねた」原作の良さを、引っぱり出して届けてもらったように感じているのだ。

 

 まず、先斗町の夜を描いた一章のテンポがおそろしくいい。原作も文体が読みやすく言い回しが面白いため決してテンポは悪く感じないが、「映像」の強みを存分に活かしためまぐるしい展開には文字媒体の小説ではなかなか追いつかないだろう。

 怒涛の一章があっという間に終わって、古本市の二章が始まった時、スクリーンを観ながら一章の内容を頭の中で整理していたのだが、そこで「してやられた」と感じた。

 あれほどの情報量を一気に流し込まれたせいで、しっかり目を離さず観ていたはずなのに各シーンを「断片的に」しか思い出せない。あれ、身近でこういう経験って何度もしてないか? たとえば、酒を飲んだときとか。あーなるほど、観ていただけでまんまと「酔っ払ってしまった」というわけか。

 この、「テンポが速すぎてしっかり記憶できていない」という状態は、映像作品を観ているあたって、本来あまり歓迎すべき状態ではないだろう。また、この作品も他の映像化作品のご多分に漏れず、時間的制約から原作の描写を一部カットしている。こういった原作の一部を駆け足で見せたり、バッサリと切ってないがしろにするやり方は、仕方がないとは言え原作ファンの不評を買いやすい。

 ただ、この作品においてはそれがあまり気にならない特殊な例だと思える。そもそもが酔っ払い達の乱痴気騒ぎを描いた作品だ。一章の内容で重要なのはせいぜい人物達の関係くらいであって、彼らと物語が生み出す情報の大半が、さして重要でない「ジャンク」な情報(たとえば詭弁論部による詭弁など)であり、その部分の記憶が飛んでいたり、そもそもカットされていたりしても大局的に大した影響がないからだ。

(もっとも、森見登美彦作品はそうしたジャンクな情報まで咀嚼してこそ楽しめるものだ、とは言えるかもしれないが)

 

 一章でまんまと酔わされた私にとって、もはや次章以降も退屈なものではなく、二章で少しクールダウンを挟んでからの三章で再びの高揚、四章では「先輩」の自己嫌悪的独白をややグロッキーに堪能させられ、悪酔いが醒めてきた頃の朝日を観るように、爽やかなような気怠いような気分でラストを迎えたのであった。まさに夜の街で飲み歩いてきたかのように。

 いやぁ『夜は短し歩けよ乙女』ってこういう作品だったのか、私が原作をあまり楽しめなかったのは、結局のところノれてなかったんだなと。飲み会の席に一人冷めた気分で座っていたらそりゃ詰まらないわけだ。

 

 とはいえ、不満をこぼしている人の意見も分かる。「一緒に酔っぱらうように鑑賞する」というのは、あくまで私の個人的な解釈による鑑賞態度であって、それが正しいスタイルだと言うつもりは全くないし、一章の展開とノリについていけなかった人にとっては、三章の学園祭などは学生達の寒い悪ふざけにしか見えないだろう。

 また、原作を大いに楽しめた人でも、いやだからこそ好きな場面を省略されていたのが気に食わなかったり、大袈裟な作画表現に辟易したという人もいるかもしれない。

 

 また森見ファンに怒られるようなことを言うかも知れないが、そもそも彼の小説は話の筋に限れば大したことないストーリーが大半である。では、大したことない話を描いた彼の小説が何故面白いのかというと、一文一文に「次の一項、次の一文を読みたい」と思わせる力があるからだ。

 これはあらゆる小説において言えることだと思うが、作品の良し悪しを決める重要な要素は「最後の一文まで読ませる何か」があるかどうかだ。そして「話の筋」とはその中の一要素でしかない。話自体大したことなくても、文章が美しい、文体が面白い、会話が機知に富んでいる、世界観に引き込まれる、魅力的な登場人物達を見ていたくなる、とにかく「次の一項を読みたい」と読者に思わせれば勝ちではないか。

 

 映画も多分、そうなのではないかと思う。ただ、能動的に読み進めていかなければならない小説に比べると、ずっと受け身でも進行していく映画ではそれに気が付きにくいかもしれないが「次のシーンが観たい」と観客に思わせ続けることができれば、最終的には大したストーリーが紡がれていなくとも、きっと観終えた後の満足度は高いはずである。 

 『夜は短し歩けよ乙女』はラブストーリーとしてはなんてことはない、冴えない男が無邪気な後輩に惚れてしまってウジウジ理屈を捏ねながら遠回りに近づいていくだけの、少なからずどこにでもある青春劇だ。

 そんな目新しくもない物語をユーモラスな文体とキャラクター、幻想的な世界観、勢いのある展開やしれっと散りばめた伏線で面白い小説に仕立て上げたのが森見登美彦であり、この映画はそんな森見登美彦の特色を、オーバーにも見える作画や、まくし立てるような声優の名演、ミステリアスな音楽などに置き換えて上手く落とし込んだ素晴らしい映像化と言っていいのではないか。

 

  こうして感想文を書いている今も、私はこの映画をクッキリと思い返すことができないでいる。インパクトのあるシーンは数多くあったはずだし、それを食い入るように観ていたという記憶もある。しかし思い出される映像は断片的かつ曖昧で、ただ楽しかったという印象だけがハッキリ残っている。

 これは映画としては褒められたものなのかは分からないが、まるで親しい友人達との飲み会の後のような、曖昧な記憶の中に残るこの高揚感と寂寥感こそが、この作品の醍醐味ではないのかと思うのであった。