百合とSF

 

 エリザベス・ベアの『スチーム・ガール』を読んだのだけど、今回はそのレビューではない。この小説、ライトなスチームパンクかつ、軽快な冒険活劇であるので、このジャンルの初心者にも薦めたいのだが、人によっては障壁になりうる要素が一つ、この物語が女性同士の親愛を描いたいわゆる「百合モノ」であるという点だ。偏見はなくとも苦手な人もいるかもしれないので万人にはやや勧めにくいかと感じた。私は平気だが。

 で、この小説を読み終えてふと思ったのだが、ここ数年百合要素の強いSFが妙に増えてないか、と。海外SFはともかく、国内の作品では顕著に。

 そういえば当ブログをの過去記事を見返しても、そこで取り上げた『ハーモニー』『少女庭国』『ヨコハマ買い出し紀行』にも、大なり小なりそういう要素があることに気づく。特にそういう作品を狙ってチョイスしたつもりはない。

 

 小説以外でも、たとえば今期のアニメだと私は『宝石の国』と『少女終末旅行』しか視聴してないのだが、どちらもその系統の作品だと言える。

 うーん、なんでこんなことになっているんだ。繰り返すが、私が別段そういうのを好んで選んでるつもりはない。単純に「SFに百合が増えてきた」のである。

 

 確かに、昔から「百合とSFは相性がいい」という謎の言説がまことしやかに囁かれていて、実際名作が多いのは事実だ。ただ、その理由を明確に説明した文章には出会ったことがないし、それにしたってここ数年の増え方にはちょっとした危惧すら覚える。

 それ自体が嫌なわけではないが、あまり作風が偏ってくるのは喜ばしくないし、何より増えている理由がわからないのはSFファンとしてもどかしい。

 そこでネットで似たような印象、危惧を抱いているSFファンはいないものかと調べてみたが、取り立てて騒がれている様子はなく、むしろ百合好きなオタク達には呑気に歓迎されている。

 じゃあ評論家界隈はどうなのかと、SF評論家やサブカル批評家あたりの見解を調べてみたが、特にそのことに触れている様子もない。当然、そういった論を述べた書籍も見当たらない。

 

 いやいや、明らかにそういう流れはあるでしょうに。それも国産SF特有の動きとして。たとえ一過性のブームに過ぎないのだとしても、一応この流れを掴んでおくのが批評家達の仕事ではないのか。もういい。自分で考える。

 というのが今回のエントリである。

 

 

 では、そもそも本当に百合SFって増えてるのかと思われる方のために、私が実際に触れた範囲で思いつく国産SFを挙げてみる。ただ、一つ断っておくと、私はSFはともかく百合というジャンルへの造詣は浅いので、正直なところ「百合」の定義をきちんと把握できていない。なので、とりあえず「恋愛、性愛に限らず女性同士の親愛を描いた作品」という条件で検索にかけている。

 

 まず、近年で代表的な百合要素のあるSFといえば故、伊藤計劃の『ハーモニー』だろう。当ブログでも劇場版の感想を述べているので興味がある方はどうぞ。

 最近の作品かどうかは微妙だが、同じくこのブログで取り上げた芦奈野ひとしの漫画『ヨコハマ買い出し紀行』でも女性型アンドロイド同士の友情以上のものが描かれている。

 もう一つ別エントリで扱った矢部嵩の『少女庭国』だが、これはちょっとキワモノなので詳細は当該記事を参照して頂きたい。

 

 ハヤカワ書房から出版された知る人ぞ知る秀作に森田季節の『不動カリンは一切動ぜず』がある。これは結構色々な作品からの影響が窺えるので、その意味で実は百合SFというジャンルど真ん中を突いた作品かもしれない。

 同じくハヤカワレーベルからツカサ『ノノノ・ワールドエンド』も。タイトル通り終末世界における少女二人の行く末を描いた作品。

『少女庭国』に劣らないキワモノ枠でハヤカワSFコンテストで話題になった草野原々『最後にして最初のアイドル』があるが、これは内容がとんでもない上にKindleで安く買えるので百合うんぬん抜きに是非一読して欲しい。

 原作小説がヒットし、アニメ化もされた貴志祐介の『新世界より』にも同性愛描写が含まれる。これは女性同士に限らず男性同士の描写もある。

 ライトノベルレーベルからも一冊挙げると、うえお久光の『紫色のクオリア』は外せないだろう。後半の怒涛の展開はもう百合だとかそういう問題ではなくなってくるが……。

 小説から少し離れて近年で代表的なアニメ作品を挙げると『魔法少女まどか☆マギカ』があるが、これはSFなのかファンタジーなのか微妙なところではある。私はSFだと思う。

 議論の余地のないれっきとしたSFアニメなら、昨年放送の『紅殻のパンドラ』がある。なんたって原案が『攻殻機動隊』の士郎正宗である。少女二人が主役でゆるい空気ながら、内容は意外とハード。

 アニメ繋がりで、今年話題に欠かなかったの『けものフレンズ』も、このジャンルに入る。というかこの流れの中で出てきた一番のヒット作ではないのか。

 そして2017年12月現在放送中の『宝石の国』や『少女終末旅行』も、なんかもう当然のように百合要素が含まれているわけだ。

 

 今思いつくのをぱっと挙げただけでこれだけある。私が知らないものや忘れてるものを含めればもっとあるに違いない。では、なんで近年の日本のSF界隈がこんな状況になっているのか考えていこう。

 

 まず「SFに限らず日常系からしてそもそも百合モノが大流行しているので、SFもその煽りを受けているだけ」という最もつまらない見解を先に挙げておく。特にアニメ界隈は一昔前の「ハーレムもの」ブームがやや鳴りを潜め、代わりに「一切男が出てこない」「出てきてもひたすら影が薄い」作品がやたらと増えている。

 オタクの「拗らせ」もここまできたのか、と嘆かわしい気分になるのだが、まぁこの話は本題からズレる上に、あまり言うと怒られそうなのでやめておく。

 ともかく、SFファンにはどちらかと言えば男が多いので、単にその市場のニーズに答えた結果、女の子同士が主役のSFが増えましたという説。

 

 もう一つ、SFというジャンルは「未来」を描いたものが多く、その先進性を示すために「現代よりも同性愛がごく自然なものと認識されている社会」を描写する一環として、女性同士の親密な関係が描かれるという説。ただし、これは当然男性同士でもいいという話になるはずなのだが、ことSFにおいては何故か男同士よりも女同士のほうが圧倒的に多いのである。なのでいまひとつその説明がつかない。

 

 どちらにせよあまり面白い説ではないので、もう少し建設的な方向性を探ろう。

 

 「何故これが流行っているのか」を考える際、有効なアプローチの一つが複数の作品に含まれる共通点を探す、というものだ。

 まずこの手の作品の世界観の傾向を調べてみる。一口にSFといっても未知の惑星から遠い未来の地球まで様々だからだ。上記で紹介した作品の世界観をざっと並べると、

(ちなみに、アポカリプスとは終末世界、つまり人類や文明が滅びゆく様を描いた作品。ポストアポカリプス【以下、PA】は既にそれらが滅びた後の世界を舞台にしたもの。ディストピアはここでは単に管理社会の意味で使っており、必ずしも不幸な社会ではない。近未来と遠未来の定義は曖昧なので主観である) 

 

紫色のクオリア』 おおよそ現代

魔法少女まどか☆マギカ』 近未来(?)

『ハーモニー』 ディストピア

『不動カリンは一切動ぜず』 ディストピア

紅殻のパンドラ』 孤島。世界の全体像は現時点で不明だがやや不穏

『ノノノ・ワールドエンド』 アポカリプス

ヨコハマ買い出し紀行』 PA

けものフレンズ』 PA(?)

少女終末旅行』 PA

新世界より』 遠未来、PA(?)

宝石の国』 遠未来

『少女庭国』 異次元、閉鎖空間

『最後にして最初のアイドル』 宇宙、異次元(?)

 

 並べてみると、全体的にやや荒廃した陰鬱な印象を受ける。もっとも近年のSF作品自体に明るい舞台が少ないとは言えそうであるし、これだけでは何とも言えないので内容から共通する構造を探してみた。

 すると、上記の作品の中だけでもいくらか似たような構造を見つけ出したので、ここから更に何作かピックアップして解説してみる。

 注目すべきは主人公達の世界、社会に対する関心、態度である。

 

 

【不動カリンは一切動ぜず】

 2010年に早川書房から刊行された森田季節による小説。

 一般的にはややマイナーなこの作品を最初に挙げたのは、上述したようにこの作品が百合SFとして割りとど真ん中を突いているのではないかと思うからだ。

 主人公である中学二年の少女、不動火輪はその名が示す通り、自分からは一切行動しない超消極人間である。ある日親友の滝口兎譚(とたん)から愛の告白を受け、自分にとって彼女がいかに重大な存在かを認識したのもつかの間、その兎譚が拐われてしまう。そして生涯「不動」を貫いてきた火輪が、彼女を救うためにとうとう自分から「動く」のだった。という内容。

 この作品で特徴的なのは国民に子供を「支給」する国家の体制や、宗教間の対立など、色々きな臭いものを想像させる設定を持ちながら、その詳細は終に語られないという点だ。

 その理由は、主人公である火輪が社会に関心を持っていないためである。彼女はただひたすら兎譚のためだけに行動する。そしてその中で、たまたま裏社会の端をめくるような事件に巻き込まれ、成り行きで解決してしまう。火輪も兎譚もあくまでお互いのことしか見ておらず、何か社会の裏を暴こうだとか、諸悪の根源をつきとめようなどといった高尚な目的を持たないために世界の核心にまで踏み込まないのだ。

 社会(世界)に関心も持たない主人公が、ひたむきに「彼女と私」の「二人の世界」を守るために行動する。この構造をよく覚えておいてほしい。

 

 

【ノノノ・ワールドエンド】

 同じく早川書房より、2016年に発表されたツカサ(著者名)による小説。

 突如発生した原因不明の白い霧が世界を包み込み、気化現象と呼ばれる深い霧に飲まれた人が次々に消滅していく終末世界を描いた作品。中3の少女、主人公ノノがDV父親から逃げる最中に謎の白衣の少女、加蓮と出会い逃避行に出るロードノベルなのだが、このテーマを描くためにかなりストイックというか、無駄なものを省いたシンプルな構成になっている。

 主役二人に共通しているのは、この滅びゆく世界に対し妙に達観的な点である。二人ともこの世の終わりをあっさり受け入れている。故にこの世界をどうにか救おうだとか、自分達だけでも何とか生き残ろうなどとあがくことがない。しかし、自己の死すら受け入れているような二人でも、それぞれ激しい動揺を見せる場面がある。加蓮はノノが彼女の父親に襲われた際に、ノノは加蓮の姿が突如消えて気化した疑惑が出た際に。

 前述の『不動カリン』とはかなり毛色が違う作品だが、共通するものはある。それはやはり、彼女達にとって、自分たちを含めた全てが存在する「大きな世界」よりも「彼女と私」の「二人の世界」のほうが重要だという点だ。「大きな世界」は当然この「二人の世界」をも包括しているので「大きな世界」が滅びれば「二人の世界」も消えてしまうはずなのだが、まるでそれは別次元にでもあるかのような盲目ぶりである。

 つまり二人で共に消えるのは怖くないが、片方だけが消えてしまい、この大きな世界から「二人の世界」が消えてしまうことには耐えられない、ということなのだろう。

 本作もまた近年の百合SFを象徴するようテーマ性を持つ作品だと言える。

 

紅殻のパンドラ

 2012年から連載中の、原案、士郎正宗、漫画、六道神士によるSF漫画。知らない人でも『攻殻機動隊』に一昔前で言う「萌え」を足したような漫画だと言えば通じそうな気がする。主役は脳以外全てを機械化した全身義体適合者の少女、七転福音(ナナコロビネネ)と、同じく全身義体適合者で福音の護衛役であるクラリオンという少女なのだが、『攻殻機動隊』の物語が基本的に公安9課から課された任務に従う形で進んでいくのに対し、この二人の少女は特に誰からも命令されずに所々のトラブルを解決していく。

 ここでも主役二人の関係性が物語の構造に大きく影響しているわけだ。福音は「世界平和」というあまりに漠然とした目標を持っているものの、それはこの社会が抱えている問題や諸悪を何一つ具体的に知らないことの裏返しである。本作でもやはり主人公は世界そのものにあまり関心を示しておらず、相方であるクラリオンの側にいることをとりあえずの行動原理にしているが、生来の世話焼きが祟ってやたらとトラブルに首をつっこむ。

 一方で相方のクラリオンもそんな福音を守ることのみを至上の目的として動き、福音の脅威になる存在を排除していたら偶然社会悪を退治していた、トラブルを解決していた、という具合で話が進む。

 中盤のボスキャラ的存在が悪役オーラを纏いながら彼女らに高説を垂れているシーンでは、二人がイチャついていて彼の話を一切聞いていないというギャグ描写があるのだが、これはこの作品全体を象徴するようなシーンに思える。

  さて、だんだん私の言いたい共通点がお分かり頂けてるかと思う。

 

 

けものフレンズ

 で、この流れの中でこの作品に触れるのは避けて通れないだろう。放送当時はこの作品が流行っている理由が正直よくわからなかったのだが、この作品の構造を考えてみると流行るべくして流行ったのだと理解できる。上で解説してきた「百合SF」の集大成的な作品だからである。以下、この項だけ少し長くなることをご容赦願う。

 

 ジャパリパークと呼ばれる広大なサファリパーク内で飼育されていた動物たちが、サンドスターという謎の物質に触れて擬人化した世界を描く本作。ここに登場する、その「フレンズ」達のほとんどは、この奇妙でどこか不穏な世界に何の疑問も持っておらず、擬人化された自分達の姿もあっさり受け入れている。この世界と環境の変化に対する無関心ぶりは無論、彼女達が元動物だから、で十分説明はつく。

 が、これまでの文脈を踏まえてさらに付け加えるならば、彼女達がフレンズ化し、人間的になコミュニケーションを得たことで、各々が特定の相手との「二人の世界」を作ってしまったことの顕れでもあるのではないかと思えるのだ。思い返せば、毎回登場するフレンズ達の多くが「二人一組」だったではないか。

 そして「セルリアン」という、いまひとつ役割の不明瞭な悪役の存在である。そもそもの話、なぜフレンズ達はこのセルリアンを恐れているのだろうか。

 作中では危険な存在として描かれていたこのセルリアンだが、実際のところそれほどの脅威ではないように思える。取り込まれても命が奪われるわけではない。ただ、元の動物の姿に戻るだけである。本来、動物が擬人化している事態の方が異常なのであって、セルリアンはどちらかと言えばこの世界のバグを修正しているかのような見方さえできる。

 しかし、フレンズ達には危険な存在だと共通認識されている。つまりフレンズ達は元の姿に戻ることを嫌がっているのだろうか。確かに、一度人並みの知性を得てしまったらそれを手放すのは怖いのかもしれないが、どうもそういう話ではなさそうなのだ。

 というのも、フレンズ達は元の姿が不便だったとか、今の姿が別段気に入っているだとか、そういう発言をほとんどしていない。せっかく人間の姿になったのだからどうせなら料理というものを食べてみたい、だとか、その程度のあくまで成り行き任せな達観したスタンスに思えるのである。

 だとすると、セルリアンが本当に奪うものは、彼女達の「擬人化した姿」よりももっと重大なものではないのか。動物の姿に戻った元フレンズ達が困ることがあるとすればなんだろう。生活に支障はないはずである。彼らは元々その姿で暮らしていたのだから。

 一度得てしまったばかりに、失って困るヒトの特性。知性、言語、感情、即ちそれはコミュニケーションの力ではないのか。無論、動物だってコミュニケーションをとる。しかし、知性や言葉を持たない動物と、人間並みのそれを持つフレンズとの間では、対等なコミュニケーションや高度な意思疎通は成り立たないはずである。

 ほとんどのフレンズには一番大切なパートナーと呼べる存在がいて、セルリアンが本当に奪うものとは、その「彼女と私との関係性」ではないのか。手当たり次第殺戮を繰り広げたり、作中世界を滅ぼすような絶対悪ではなく、ただ彼女達が築き上げてきた「二人の世界」に対する脅威としてその役割を担っている。と、セルリアンをそのような役回りだと考えれば、色々合点がいくのである。

 たとえば、最終話手前の12話でかばんとサーバルが互いを庇って交互にセルリアンに飲まれるという一連の流れ、これは互いの尊い自己犠牲というよりもむしろ、

「自分が動物に戻るのは構わないけど、彼女がフレンズでなくなってしまうことには耐えられない」

 という心理からの行動ではなかったのか。動物に戻ってしまった方は「二人の世界」が壊されたことを認識せずに済むが、フレンズのまま、つまりヒトとしての思考を持ったまま残された側はより辛い立場に立たされる。

 実際、最終話でのサーバルは、かばんが本来の姿に戻ってしまうことに激しく狼狽えている。彼女が死ぬわけでもないのに、彼女がフレンズでなくなってしまうことが「わたしたちの関係の終わり」を意味していることを察知していなければ、この反応は説明がつかない。

 この作品では擬人化した動物を「フレンド(友達)」ではなく「フレンズ(友達同士)」と呼ぶ。誰か一人を指しても「フレンズ」である。この呼称が既に誰かとの親密な関係性を示唆した、あるいは関係性に縛られたものだと言えないだろうか。サンドスターの魔法が解け、フレンズで・・・・・なくなる・・・・こととは、単に元の動物の姿に戻るだけに留まらず、他者との関係性までをも失う重大な損失なのではないか。

 

  ……と、この記事の趣旨はけもフレ評ではないので、そろそろ本題に戻ろう。

 

 以上のように、百合要素の強いSF、とりわけここ数年の作品は、全てがそうではないが、似たような構造を持つ作品がいくつか見受けられるのである。ざっくりまとめると、

・世界、あるいは社会にあまり関心を持たない、あるいはそれらに達観的な主役達

・彼女達にとって重要なのは「彼女と私の関係」「二人の世界」

・社会問題や社会悪に積極的に関わろうとはしないが故に、世界の全体像や裏側がほのめか・・・・される・・・に留まる。

・自分達の「二人の世界」を脅かすモノの排除には躍起になる。

 

 このようにまとめていて思ったのだが、やはり百合とSFというのはアンチシナジー、とまでは言わないが、それほど相性は良くないのではないかと思った。

 というのも、SF作品というのはその世界観の広がりが一つこのジャンルの大きな魅力であると私は捉えていて、百合要素、つまり「二人の世界」に焦点を当てた物語展開は、この世界観の広がりを抑制しがちだと思えるである。

 ただ、なぜ今このような構造を持つ百合SF作品が増えているのかという疑問については、一定の理解を得られたような気がする。ここでは二つの側面からの仮説を挙げてみたいと思う。

 

 一つは、ありがちだがこれが現代社会の世相を反映したものであるという説。

 フィクション作品の構造と現実社会の様相をこじつけるような作品論は、どこか恣意的、あるいは政治的意図を感じられるものが多くてあまり好きではなかったのだが、自分だと棚に上げてやってしまう不思議。

  現代の社会、とりわけSNSが普及してからの現在、多くの人は国、都市、地域のような物理的な所在地に依拠する共同体や、会社、学校などの所属とは別に、主にネット上で趣味や思想の似た仲間たちと無数のコミュニティを形成している。つまり、大きな世界の中に膨大な数の「小さな世界」が形成されている。まぁこのあたりの話は10年近く前から宇野常寛あたりが何度も論じているので、私が今更受け売りを披露する必要はない。

 ここで重要なのは、人はしばしば、より重大なはずの大きな社会問題や世界的な危機よりも、この自分達の「小さな世界」を守ることのほうに強く関心を寄せているということだ。

 たとえば、アニメや漫画、ゲームなどのフィクション作品で繋がっている人々の中には、北からミサイルが飛んでくるような国家の危機的状況に無関心だったり茶化したりしながら、一方で「表現規制」などの「自分達の小さな世界の危機」の話題になると急に目くじら立てて怒り出すような人が少なくない。

 ミサイルが国内に落ちてくるようなことがあれば、当然、趣味娯楽を楽しんでいられるような状況ではなくなる。にも関わらず、広く自分達を包括しているはずの「大きな世界」への当事者性がどこか希薄で、そんなことより自分達だけが・・・身をおいているこの「小さな世界」のほうが大事なのだと言わんばかりの態度、ここまで語ってきた百合SF作品の性質と何か近いものを感じないか。

 それともこれも単なるこじつけだろうか? うーん。

 

 もう一つ、これもまたありがちというか、そろそろウンザリしてくるのだが、これもひとつの「セカイ系」作品のからの流れ、というか、ほとんど反動に近いんじゃないかという説。

 セカイ系作品というのは本当に今更語りたくもないのだが、知らない方もいるかもしれないのでさっくり説明すると、

 主人公とヒロイン、つまり「きみとぼく」との関係が具体的な中間項(社会問題など)を挟むことなく、世界の危機などという抽象的な大問題に直結している作品のことで、よく挙げられる作品として新海誠の『ほしのこえ』や、秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏高橋しん最終兵器彼女』なんかがある。私が先程から「彼女と私」というワードを何度か使っているのはこの「きみとぼく」に対応させるためだ。

(詳しくはこのへんとか、このへんとか、このへんの本は分かり易いし面白い。というかもう、wikipediaを読めばだいたい把握できる。私はセカイ系論に関しては散々読んだので食傷気味である)

 このセカイ系作品というのは基本的に「ボーイミーツガール」を主軸にしており、身も蓋もないことを言ってしまえば、彼らのその純愛を切なく描くために世界が滅ぼされてしまうようなものである。だから、そこに世界を破壊する悪の具体的な姿や、社会問題といったものを描く必要がなく、ただ「世界が滅びる」「世界のために少女が何かと戦っている」というその事実、その設定だけがあればいいわけで、少年少女の心理描写を除く全体像が極めて抽象的である。

 この全体像の曖昧さは上記で挙げた百合SFにも共通するものがあると言えるが、その構造に関しては反動的とも言えるほど真逆のものになっている。

 

 まず、セカイ系作品が「ボーイミーツガール」であるのに対し、百合SFが「ガールミーツガール」な時点でそれは何となく察せられる。セカイ系作品は「大きなセカイ」のために二人の関係(特に少女側)が犠牲になる、という筋書きだが、それに対し百合SFのそれは「世界なんて知らんが、私達の関係が一番大事だ」とする正反対のものになっている。

 故に、セカイ系作品内で主にヒロインが戦っている相手は極めて抽象的な「世界を危機に追いやっている何か」であるのに対し、百合SFで戦うものがあるとすれば、それは「私達の関係を脅かす差し迫った具体的な危機」である。

 主役二人の関係にもかなり違いがある。セカイ系における主人公はだいたい一般人の少年で、世界の危機に対してもヒロインを守ることに対してもとことん無力であり、何か凄い能力を持ち、世界を守ろうと奮闘しているヒロインに、結果として一方的に守られているという関係になる。

 百合SFの場合、両者は対等な関係であるか、互いの欠点を補い合う関係であることがほとんどだ。『けものフレンズ』のかばんとサーバル、『紅殻のパンドラ』の福音とクラリオンなんかは互いの能力を活かして問題を解決したり危機を乗り越えるし、『少女終末旅行』におけるチトとユーリなども、何かと戦うわけではないにせよ、それぞれ知性と行動力という長所を出しながら生活を営む。

 一見理想的にも見えるこのような関係にはしかし、共依存に陥りやすいという落とし穴もあり、そのことが「二人の世界」への執着をより強め、私達の関係>大きな世界という図式に繋がっているとも考えられるだろう。

 このように近年の百合SFはセカイ系の影響下にありながらも、それらの作品への拒否反応とも思えるような真逆の構造をしているのである。

 どうだろう、こちらも私の立てた勝手な仮説だが、先程の現実社会とリンクさせる考えよりは少し説得力がないだろうか。……そうでもないか。

 

 

 

 で、だ、ここまでこうして当ブログ最長となる1万字以上をかけて「なぜ最近百合SFが増えているのか」を考えてきたわけだが……

 皮肉なことに、ここまで書いてきた結果、私のその認識自体がおかしかったのではないかという結論に達しそうなのである。

 

 そもそも、だ。なぜ私は何の疑いもなく「最近のSFは百合モノが・・・・・増えてきた・・・・・」と認識してしまったのだろうか。いや、言うまでもない。それは私がSF・・ファン・・・だからである。

 私はSFが好きだ。だから私は百合要素が強かろうとなんだろうと、それがSFである限り偏見なく楽しめる自信がある。しかし、この百合要素がSF的世界観の広がりを抑制しがちな点がやや物足りなく、残念だ。と、ここまでそう考えてきた。

 しかし、それはとんでもなく的外れな思い違いだったのではないのか。起こっている事態は、実は全く逆だったのではないか。

 

  確かに、この「百合」という要素はSFに・・・とって・・・それほどプラスに作用するファクターではないかもしれない。

 だが、そもそもの話、近年増えているのは「百合要素の強いSF」ではなく「SF色の強い百合作品」なのだとしたら……?

 年端もいかない少女同士の親愛、彼女らが作り出す「二人の世界」を、よりヴィヴィッドに色めいたものとして描き出すために、そのコントラストとして世界から鮮やかさを消し、無機質なものにしようとすれば、

 それは、たとえば終末世界・・・・となり、ディス・・・トピア・・・となり、

 結果として、図らずもSFにな・・・・ってしまう・・・・・のではないか。

 

 なぜ、この百合SFの世界に荒廃した設定が多かったのか。SFに百合が好相性だからではない、百合にSFがマッチするからだ。そうなのか。

 

 だとすれば、私の身に起きたこととはつまり、今までほとんど関心を持っていなかった「百合」というジャンルが、最近にわかにSF色を強めてきたことで私のレーダーに引っかかるようになり、結果私は「最近のSFは百合が多い」と誤認・・した、と。

 悲しいがそう考えると色々合点がいく。「SFに百合が増えた」というのはあくまで私の趣味嗜好の範囲に依拠する主観的な認識でしかなく、ならば世間が騒いでいないのも、批評家がだんまりなのも当たり前だということだ。

「世界観の広がりに欠ける点がSFとしてマイナス」という私の評価は見当違いもいいところで、そもそもこれらの作品がSFであ・・・・る前に・・・百合作品・・・・である・・・ならば、当然「二人の関係」こそが主題として描かれるべきであり、極端な話、世界観とはそれを強調するためだけに設定されていても構わなかったわけだ。

 

 

 

 

 貴重な休日にここまで1万1千文字以上も、私は何を書いてきたのだろう……。

 

 いや、ここまで書かなければ、このことに気づくこともなかったわけだが、

 この虚無感はいかんともし難い。

 

 

 願わくば、せめてこの文章が読んでくれた誰かの興味を満たし、何かの疑問に応えるものでありますように。