野良に餌を与えるということ

 

 

 一月ほど前から、私の住むアパートに猫の母子が住み着いている。もともとこのアパートには野良猫が入れ代わり立ち代わり暮らしていたのだが、そのほとんどが独り身であり、親子というのは少し稀であった。

 猫好きの人が聞けば喜ぶ環境かもしれないが、どちらかというと動物が苦手な私にとって、野良の猫は可愛い以上に煩わしい存在であると言わざるをえない。昼夜を問わずゴミ捨て場を散らかすし、バイクの出し入れを妨害するし、犬ほどではないにせよ喧嘩や発情期にはマアマアと喧しい。しいて実利を見出すとすれば、害虫の駆除に貢献してくれることくらいだろうか。

 しかしながら、日頃そのような認識しか持っていなかった私にとってさえ「親子」というのはついつい目をひかれてしまう特別な存在だ。いつ見かけても彼らは連れ立って行動していた。日中は屋根や階段で二の字に身体を伸ばし、近頃涼しくなってきた夜は寄り添うように身を固めている。そんな二匹がゴミ捨て場で僅かな食べ残しを見つけては、子供に優先して食事を与えている光景などを目にすると、ついつい酒のつまみでも分けてあげたくなるのが人情というものだろう。

 それでも私は、一度足りとも彼らに施しを与えたことがない。

 

 世間では昔から野良に「餌をやる派」と「やらない派」でしばしば論争が起こる。つい先日もTwitterで「やらない派」の人々が「餌をやる派」のエピソードを厳しく非難していた。まぁそれを見て思うところがあったので今回のエントリを書いたわけである。

 言うまでもなく私自身は「やらない派」である。とはいえ、餌をやってる人を見かけても特に糾弾しようとは思わない。実際私のアパートでもこっそり餌をあげてる人を時々見かけるが注意をしたこともない。

 

 野良に餌をあげない理由は、おおよそ三つに分けられる。

1、人間社会への実害

 野良が餌を食べれば当然排泄物が増え、公共の場が汚れるが、誰のペットでもないので誰も片付けようとしない。また頻繁に餌を与える人がいる場所には野良がさらに集まりやすくなり、その場での交配も手伝って数が増え、ゴミ荒らしなどの諸々の被害が大きくなる。

 

2、 法的な問題

 野良への餌付けを直接禁止している法律はないらしい。ただ、公共の場や他人の私有地で許可無く動物を飼う(ような)行為は訴えられても文句は言えない。また単純に野良への餌付けを条例で禁止している自治体もある。

 

3、倫理的な問題

 家に連れ帰って世話をする責任感もないのに、餌だけ与えて自己満足に浸るのは感心できない。それはエゴでしかないのでは。というような話。

 

 どれ一つをとっても「野良に餌を与えてはいけない理由」として必要十分条件を満たしているように思える。しかし私の中で決定的な理由になっているのは3の倫理的な問題である。もちろん、頭では1、2、の理由ともに理解と納得をしている。しかし、そもそも根本的に犬や猫に関心のない私は、彼らの行動や彼らに関する法律に明るくないのだ。

 よってこのエントリでは「3、倫理的な問題」について、それはやはり人間のエゴなのか考えてみたい。

 

 さて、先に私は野良に餌を与えたことがないと述べたが、では実際のところ「餌を与えたら」彼らはどうなるのか、そして私はどう考えるのか。やってみないことには分からない。では一度やってみようじゃないか。無論、脳内で。

 

 冒頭で紹介した親子に再び登場願おう。この二匹、とにかく愛らしい。野良猫など日頃風景の一部としてしか捉えていない私にさえ、ひしひしと訴えかけてくる愛らしさだ。

 母猫はとにかく子供を溺愛している様子で、子供が一匹の時に近づいてみると、どこからともなく駆けつけてくるし、暇を見つけては子供に乳を与えながら身体を舐め回している。そんな親の寵愛を一身に受けていつも毛が逆立っている子供の方は、人間に興味があるようで、コンビニ袋が擦れる音などを聞くとふらふらと近寄ってくる。

 と、適当に可愛さを伝えたところで嫌な話に移ろう。

 

 そんな可愛くも哀れな二匹を見かねて私はとうとう彼らに施しを与えてしまった。とする。……猫って何食うんだっけ? まぁとりあえず缶詰にしよう。私が好きだから。

 普段ゴミに近いものを食べて空腹に耐えている二匹だ、最初は警戒するかもしれないが間違いなくがっつくだろう。(しかし、こんな贅沢な飯さえもこの母猫なら子供にそのほとんどを与えるかもしれない、と想像してしまう)

 そんな彼らを見て目を細めつつも、稀代の理屈屋である私は、自分のこの行動を何とか正当化するためにそれらしい理由をひねり出そうとするに違いない。「自分が餌をあげることでゴミ荒らしをやめてくれるかもしれない」とかなんとか。

 二匹に一時の至福を与えられた満足感と、禁を犯してしまったという僅かな後ろめたさを背に、私はその場を後にする。

 

 さて、その翌日、またしても私はひもじいあの二匹に出くわしてしまった。としよう。「まぁ昨日餌をやったし、今日はいいだろう」と思いかけて一考、

  何故昨日は餌をやったのに、今日はやらないのか。

 それは私の気分だ。それ以外に理由なんてない。友達に飯を奢るような気軽さで与えてやっただけだ。そんなに深く考えることじゃない。

 人間の感覚だとそうだろう。しかし、野良である彼らにとっては違う。彼らにとってその日の餌は文字通りの死活問題だ。それを人間の「気分」が左右する。心なしか彼らの目に期待の色が浮かんでいるように見える、かもしれない。

 もちろん、このまま私が立ち去ったところで翌日すぐ彼らが死ぬなんてことはないだろう。ただ、その後何食わぬ顔でゴミ捨て場の食べかすを舐める彼らは、昨日より少し不幸な気分にはならないか。動物にだって食べ物の良し悪しは分かる。ペットにいい餌ばかり与えていると安い餌を口にしなくなる、なんて話も聞く。そこで、ようやく私は気がつく。

 私は昨日、彼らに少しの幸福を与え、代わりに今日、彼らを少し不幸にするのだ、と。

 

 稀代の理屈屋である私は必死に「今日餌を与えない理由」を考える。おかしい、昨日はあれだけ「餌をあげる理由」を絞り出していたはずなのに……。

 

 まぁ、実際のところ「餌をやる派」の人達はそんな面倒な思考に陥らずに、その日の気分であげたりあげなかったりするのだろう。結局は猫側の運の問題だ。それも別に間違った考えではないのかもしれない。

 しかし私はそういう理屈を妙に気にする人間なのだ。

 

  そうして私は、その日から毎日餌をあげるようになる。納得のいく「やめる理由」が見つからないからだ。最初は気まぐれだった行為も、毎日続くとそれは習慣になる。

 同じくして猫側にも変化が生じる。最初はただの幸運だった私が持ってくる食事を、彼らは完全に「あて」にするようになる。栄養価が高く、美味な食事。それを毎日口にする彼らは次第に元気になり、身体には肉がつく。その様子を見る私は喜びの反面、焦燥感も募っているはずである。

 このままではいけない。こんなのは「野良猫の生き方」とは言えない。毎日食事を分けてあげながら、きっとそんな思いが常にある。もう妙な理屈は捨てて餌付けをやめるべきだ、とどこかで決心するだろう。

 そして私は事態が致命的な段階まで進んでしまっていることに思い至るのだ。

 

 栄養価の高い食事を毎日とっていた彼らは、おそらく、いや間違いなく本来の寿命よりも長生きするだろう。それだけに気づいたのならまだいい。しかし、私はさらにその先の事実にも目を向けてしまう。それは、私が餌を与え続ける限り彼らはまだまだ寿命が伸びる、ということだ。そして私は、今それを終わらせようとしている。私の判断で、私の都合で、私の気分で、私は彼らの延命を「打ち切る」

 そんな権限を私は一体いつ得たのだろうか。

 

 もう一切何も考えず、餌付けをやめる。あるいは、彼らが死ぬまで、姿を消すまで、食事を与え続ける。どちらもありそうだが、現実的には私がこのアパートを出て行くほうが早そうだ。引っ越すから仕方ない、という極上の「理由」を得た私は、ようやく重荷から解放され、新居での生活が始まる。

 不幸にも、そこでも私は野良猫の親子に出会ってしまった、としよう。「もう同じ過ちは繰り返すまい」と鉄の意志を持って餌付けを禁じられればいいのだが、恐ろしいのは自分が次のように考えてしまわないか、ということである。

 

  前の親子にはあげて、何故この親子にはあげないの?

 

 

 

 ……何か最後の方は世にも奇妙な物語の様相を呈していたが、このような不毛な葛藤を抱えたくないから、私は野良に餌を与えないのである。考えすぎといえば考えすぎなのかもしれない。たかが野良猫相手に大袈裟な、と思う人もいるだろう。実際、私も一度餌をあげてしまった程度でここまで深みにはまるとは思えない。しかし、ただただ理屈で考えていくとそうなってしまう。

 そして私は、稀代の理屈屋なのであった。

 

 

 9月になって随分涼しくなった。過ごしやすい、いい気候である。部屋のある人間や、飼猫にとっては。

 盆地である京都の冬は厳しい。雪こそさほど降らないものの、その刺すような寒さはエアコンのない部屋に住む私にとっても耐え難いものだ。

 恐らくだが……例の親子はこの冬を越えられないのではないかと思う。毎年、うちのアパートに住み着く野良猫達は、春になるとその面子が一新している。もちろん、冬は冬用の住処があるというだけなのかもしれないし、私は彼らの死骸も見たことがない。

 ただ、あの親子は今の時点で既に弱っている、ように見える。身体は細いし、とにかく動きが鈍い。自転車を動かす時なども、タイヤが鼻先に当たるくらいまで近づいてようやく億劫そうに腰を上げるのだ。(単にふてぶてしいのかもしれないが)

  そして、そこまで予想してなお私は、彼らに餌もタオルも与えるつもりがない。愛護団体が聞いたら抗議が殺到しそうなまでの不干渉ぶりだと自分でも思う。初めから全く関心がないのならともかく、彼らの可愛さと不憫さを認めて、彼らの行く末を想像して、結果見殺しにするのだから。

 ここまでくると、これもまた私のエゴでしかないような気がしてくるのだった。

 

 以前、Twitterだか2chだかで「やらない派」の誰かが言っていた。

「人と彼らは違う世界の住人だから、彼らの暮らしに干渉してはいけない」と。

 なるほど、そう考えれば少しは気も楽になるかもしれない。だが、やはり私はそれが甘えた詭弁に過ぎないと考える。

 人と動物はどうしようもなく、同じ世界の住人である。そうでなければ、彼らが時に迷惑した人間達に殺処分され、時に心癒された人間達に餌を恵まれるはずなどない。

 

 結局のところ、人と動物の付き合いは二つに一つしかない。

 責任を持って愛でられるか、冷徹に(見)殺されるか

 

 だからこそ「餌をやる派」は間違っていると思うし

 私は、動物が苦手なのである。