「本当の自分」という幻想

 

 

 今更ながら平野啓一郎の『私とは何か』を読んだ。今更ながら、というのは、この本は2012年9月に出版されていて、当初から個人的に非常に興味のあるテーマについて書かれていることを知っていたのだが、長らく読めずじまいだったのだ。

 主な理由は「すっかり忘れていたから」

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 サブタイトルにあるように、この本は、従来の「個人」という概念を改め、一人の人間を「分人」というさらに小さな単位の集合体として見直し、人格や性格といったものが自分と他者各々との合作であることを提示する。

「個人」という意味の英語“individual”は、分解すると覚えやすい。“divide”(分割)→“dividual”(分けられる)→“in‐dividual”(分けられない)

(ちなみに本書によると“dividual”という語は、ないわけではないが一般的には使われないらしい。すごくありそうな語なのに)

 つまり人類を国家、都市、地域、家族、という風に構成員で分けていった際に、もうそれ以上分けることのできない最小の単位が一人の人間。それが「個人」という語の由来だ。

 しかしこの「個人」を最小単位とする人間観では、人の内面というものを十分に語り得ない。いや、それで無理に推し量ろうとしてきたからこそ、人は人間関係で不毛な悩みを募らせるのだと平野は言う。 

 「分人」とは平野啓一郎の造語である。読んで字のごとく一人の人間を“dividual”(分割可能)な存在として認識する。他者との関係によって様々な「私」が生まれ、人間とはその複数の「私」の集合体なのだ、と。

 一般的な「個人」の考え方でも、人は多くの顔を持っているというのが普通の認識だろう。しかし、それは「本当の自分」「素の自分」というものが中心にあり、人は相手によって、場面によって、多種多様の仮面(ペルソナ)をつけかえることで多かれ少なかれ自分を偽り、人間関係を築いている。と考えている人が多いのではないか。

 しかし、「分人」の考え方では「本当の自分」など存在しない。あるいは、それら全てが「本当の自分」だと考えることもできる。実家でリラックスしている自分も、親友の隣で朗らかな自分も、学校で虐めれている自分も、職場で上司にゴマをすっている自分も、そこに真-偽の関係はない。優劣をつけるとするなら、それらの自分を好きか、嫌いか、という問題でしかないのだ。

「人格」とは自分一人でどうこう診断できるものではない。何故なら人の人格とは自分と他者との合作だからである。一人の人間の内面には、他者と出会う度に「家族との分人」「友達との分人」「先輩後輩との分人」「取引先との分人」などが生まれ、共存し、場面に応じて顔を出す。

 そして「個性」とはその人の「分人」の構成比率に他ならない。ヤンキー仲間との付き合いが深ければ、その分人が大きな比率を占めてヤンキーとなり、リア充仲間との比率が大きい人はリア充となる。つまり付き合う人間が変われば、人はガラッとその内面を変えることが可能なのである。

 

 このような考え方を持つことで、人間関係で理不尽に思える悩みや葛藤にもいくらか整理をつけられる。

・他の人には優しい顔をするくせに、自分には辛く当たってくる人がいる。彼のそういった自分に対する分人を、半分作ったのは自分である。という意識を持てるか持てないかでは、今後の対応も変わってくるだろう。

・「恋人といると優しくなれる人」の分人は、その半分を自分が作り、もう半分は相手(恋人)が作り上げたものだ。故にその恋人がいない時にその分人が現れることはない。ということが理解できれば、失恋の悲しみとは、つまり自分の分人を一つ失う悲しみであるという解釈を得られる。

・鬱に罹ってしまった人がよく口にする「死にたいんじゃなくて消えたい」という言葉なども、分人の考えによって理解に近づけるかもしれない。彼らは死んで全て消したいのではなく、自分の嫌いな分人を消し去りたいのではないか。

・「自分探しの旅」と言うと馬鹿にされがちだが、新たな人々と出逢い、新たな自分の分人を作る旅だ、と考えれば一定の理解を得られるのではないか。

 

 

 以上に挙げたのは一例だが、本書はこのように人間関係の葛藤から人の愛情、さらには人の死に至るまで、この「分人」という考え方一つでその認識を大きく変えてみせる。もしも、このような考え方を全く持ったことがない人がいるなら、その人にとっては大袈裟でなく人生観を変えるような一冊になるかもしれないので、ぜひ読んでみて欲しい。

 

 

 

 が、しかし

 実のところ、そこまでの衝撃を受ける読者はそれほど多くないのではないか。と私は思っている。恥ずかしながら以下は私のTwitterアカウントの2011年9月29日のツイートである。

 

いしもり@ISHIMORI_t

例えば学校では小間使いだけど、バイト先では頼れるアニキ、みたいな人間がいたとして、彼は大学とバイト先とで性格が変わっているわけではないし、性格に裏表があるわけでもない。単にキャラ(≒コミュニティ内での立ち位置と役柄)が変わっているだけ。

 

 私は「分人」などという言葉を思いつかなかったので、若者言葉的な「キャラ」という言葉で誤魔化したが、言わんとしてることは本書の分人論に共通するところがある。

 この時の私は考えでは「人格」とは「キャラ」の集合体であり、その「キャラ」はその人の属する各々のコミュニティで形作られる。人同士の関係より、コミュニティに重点を置いているあたりは本書とは大きく異なるが、その場その場で仮面を付け替えているのではなく、どれも本当の自分だ、いや「本当の自分なんてものは幻想だ」という考えが確かにあったのだ。(しかし、今思うと「キャラ」という語にはどうにも「演じている」という意味がつきまとうので、全然適切ではなかった。浅薄!)

 無論、私はこのツイートをわざわざ引っ張ってきて「学生時代に平野啓一郎と同じ考えに至っていた!」などとくだらない自慢をしたいのではない。私が言いたいのは

 

  「これって、多くの人がうすうす気づいていることなんじゃないか」

 

 ということだ。少なくとも「私ってなんだ」という思春期にありがちなプチ哲学にふけった経験のある人なら、このような考えが頭に浮かんだことがあっても不思議ではない。

 

 実際、平野も本書の序盤で

 漠然と気づいていることを、改めて考えるためには、どうしても、言葉が必要である。「無意識の存在」を、フロイト以前の人間がどんなに感じ取っていたとしても、話題とするためには、やはり適当な用語が与えられなければならなかった。

 その意味では、本書の内容は、多くの人が既に知っていることである。ただ、明瞭に語られてこなかったというに過ぎない。議論のためには、どうしても足場が必要となる。本書の意義は、それをまずは整備することである。

 と、述べている。つまりこの本は「分人」という革新的な概念を提示して、読んだ人の人生観を一変させるような自己啓発本として書かれたのではなく、多くの人が漠然と抱いているもやもやした考えに「分人」という名前を与えることで明確に概念化し、 それに真正面から向き合い、その認識を持って各人が自己と他者について考えなおす手助けになるように執筆されたわけである。

 そして、本書は理路整然とした説得力を持って、その目的を大いに果たしているといえる。実際、私も上述のようになんとなく考えてはいたものの、明確にまとめるには至らなかった未熟な思考を、手取り足取り整理してもらえた気分で読み終えたのであった。

 

 

  ただ、どれほど説得力のある考え方も、黙って丸飲みできないのが私の性分である。

 本書の論はとにかく自己と他者、つまり分人と分人同士の関係に重きをおいて語られている。それ自体、非常に説得力のあるもので私にはケチのつけようがない。

 この分人同士の関係が形成される前段階を本書では「社会的分人」と称している。この「社会的分人」というのは、初対面の人間同士が交わす、当たり障りのない、愛想は良くてもどこかよそよそしい、比較的汎用性の高い、簡単に言えば「よそ行きの人格」のことだ。無論これも「偽りの自分」などではなく、単に「あまり知らない人用の分人」であるに過ぎないのだが、本書はこの「社会的分人」を本格的な「分人」へ移行する過程での通過点と見なし、やや軽視しているように見受けられた。

 私はこの「社会的分人」は殊の外重要であると考える。そもそも私は上述のツイートのように、人と人同士の関係と同等以上に、より大きな単位の「コミュニティ」が人格形成に大きく寄与するという考えを持っており、それは本書を読み終えた後でも大きくは変わらなかった。

 また、本書では「分人」とは対人関係の中で自然発生的に生じるものであり、 そこに本人同士が意図的なコントロールを加えることはあまりできない、とされている。

 

 この二点に関して、私はいささかの疑問を呈したい。ただ、反論というにはその根拠があまりに個人的な経験則によるものなので、これを本書のマイナス点として挙げるのではない。あくまで一部納得できるかには個人差がある、という程度の話だと思ってもらえればいい。

(と、言い逃れをしておく)

 

 さて、先に述べたように個人的経験則で恐縮なのだが、昔から「本当の自分」などというものを信じていなかった私は、これまでの人生で、本書で言うところの「分人」をある程度意図的にコントロールしてきた節がある。これは何も特別なことではなく、やっている人は結構やっているはずだ。

 より正確に言うと、新しいコミュニティに入る際の「社会的分人」の段階で、自分のキャラクターをある程度「演じ」て足場を固め、そのキャラクターをベースにしてそのコミュニティ内の人間達と「分人」を育んできたのだ。先のツイートで「キャラ」という言葉を安易に使ってしまったのも、こういった経験に起因している。

 例えば、新しい学校、新しいバイト先に入る時、私は「今回はこういうキャラでいこう」という意図がいつも明確にある。不敵にもそのコミュニティの空気やメンバーを知る前に、である。社会的分人同士の段階で、私はある程度「自分はこういう人間です」という提示をする。実はこの段階では自分の中で「演技だ」という意識がある。学校で、職場で、サークル内でそうやって演じた(つもり)の「お人好し」「大雑把」「ろくでなし」などというイメージは、程なくしてコミュニティ内での共通認識となる。

 するとどうだろう。最初は演技でやっていたはずのキャラクターが、いつの間にかごく自然に自分の「分人」になっているのである。なぜなら、周りがそう認識し、そうさせてくれるからだ。逆説的だが、周囲の認識と扱いが人格の大枠を形作ってしまうということが起こるのである。

 周囲の自分に対するおおよそのイメージが固まってきたら、対人間での分人を作る。確かに対人間の分人は自然発生的な面が強いと思う。しかし、それはある程度意図的に操作されて出来上がった「コミュニティ内の分人」を、相手によって微調整したものと言える。

 例えば家族に見せる分人と、学校での分人が全く違った性格に見える人でも、学校でAさんに見せる分人と、同じクラスのBさんに見せる分人は、態度に多少の違いはあっても、おおよそ似通った性格のはずである。何故なら、そのコミュニティ内の共通認識から大きく逸脱はできないからだ。急にズレた態度を見せるとそのコミュニティ内での立場が不安定なものになる。立場を変えたいがためにわざと逸脱するようなことがあったとしても、ずっと不安定なままではいられない。

 分人とは「自分」と「他者」と「さらに周囲の他者(≒コミュニティ)」の合作であると思う。そしてその「コミュニティ内での社会的分人」はある程度コントール可能で、しかもそれがベースになって個別的分人を作る。故に社会的分人はただの通過点では済まされず、むしろ土台になってしまうほど重要なものではないだろうか。

「第一印象が肝心」という格言が一定の説得力を帯びているのは、単に「それを後から覆すことが難しいから」という理由だけに留まらないと私は思う。

 

 

 

 最後にネット上の、とりわけSNSにおける分人について考えてみたい。

 SNSとは非常にやっかいな代物である。なにせ、学生時代の友人から顔も知らない趣味仲間、人によっては家族や職場の人間まで一堂に会しているような混沌とした空間であるからだ。実際、知人のSNSを覗いていて「こいつなんかリアルとキャラ違うな……」という違和感を覚えたり、逆に自分が投稿する時どんなノリで書き込んでいいか悩んだ人も多いだろう。

 結論から言って、リアルのいかなる自分の分人を呼び出そうと、誰かに違和感を与え、自分でもしっくりこないことは避けようがない。ならば答えは明確。「SNS用の分人」で投稿すればいい。SNSでの発言は、多くの場合誰か特定の人間に宛てられるわけではなく、故に誰か特定の人との分人を呼び出すことは不可能だ。

 私は完全に開き直ってSNS用の自分を明確にキャラ付けしているが、例えば長らく私をTwitterでフォローしてくれている友人なんかはリアルとのギャップにすっかり慣れてくれている(だろう)し、このブログを読んでくれている人がいれば、そろそろ「私」などという澄ました一人称にも慣れてくれている……はずである。

 

 それはさておき、私が最も恐れているのはTwitterやこのブログでの私が「本当の私」だとか「猫を被っている」などと思われていないか、ということだ。本書、あるいはこのエントリをここまで読んでくれた人に限ってそんな見当違いをしている人はいないと思うが、本書に基いてもう一度念を押しておくと、

 ・いかなる私の分人も、どれが本性でどれが嘘だということはない。どれも個別に私であり、全て合わさっても私である。

 ・私の分人は、私と私が知る他者との合作である。

 

 

 つまり、

 Twitterで自虐ネタに走っている私の分人も、

 このブログで真面目ぶってる私の分人も、

 部屋で独り巨乳グラビア動画を漁る私の分人も、

 知人に彼女ができる度に悪態をつく私の分人も、

 麻雀打ちながら下ネタを披露する私の分人も、

 

「半分は」あなた方の生み出した粗大ゴミである。猛省して頂きたい。