ぼぎわんが、来る

 

ぼぎわんが、来る (角川書店単行本)

ぼぎわんが、来る (角川書店単行本)

 

 

 またホラーか、と思われそうだが、つい先日ハロウィンだったということで(?)ご容赦願いたい。私は普段、本を何冊か同時進行で読む並行読書タイプであるが、同じようなジャンルのものを同時に読むことはあまりしない。ところが、このブログについてもまた何記事か同時に下書きして書き上がったものから更新している。なので必ずしも読み終わった本の記事から順に更新されるわけではなく、今後も似たようなジャンルの本のレビューが続いてしまうこともあるかもしれない。

 

 それはともかく、この『ぼぎわんが、来る』は第22回、つまり今年(2015年)の「日本ホラー小説大賞」の大賞受賞作だ。言うまでもなくこの賞は公募新人賞であり、即ち本作は新人作家のデビュー作ということになる。

 そして読んでびっくり。「これ本当にデビュー作か?」と思えるほど文章に粗がなく、展開にも無駄がない。キャラクター造形もしっかり練られていて、「演出」や「小技」も上手い。一言で言って完成度が非常に高く、ホラーとしても間違いなく一級品だった。

 

 物語は、とある地方に伝わる「ぼぎわん」という怪異に執拗に狙われた人々の経緯を語るもので、これはネット上の、もっと言えば2ちゃんねるオカルト板で人気の「民間伝承」系の怖い話だと思ってもらって差し支えない。

「ぼぎわんに家を訪問されても応答してはならない」といった昔から伝わる「決まり事」や、その決まりを破ってしまったがために化物にどこまでも纏わりつかれる主人公一家、解決策を求めて民俗学者や曰く有りげな場所を訪ねる展開、そうして知ることになるその地方の黒い風習、名だたる霊能力者たちが「こりゃ手に負えん」と怪異に白旗を上げる様、など

「八尺様」や「リゾートバイト」「リアル」といった作品と大筋がよく似ている。よく言えば「王道」であり、悪く言うと話自体は「よくある話」だ。

 ただ、それら「ネットでよく見かける民間伝承ホラー」をプロ(レベル)の作家が書くとここまでのクオリティになるのか、と驚くこと請け合いであり、あの手の怖い話に飽きてる人にさえ太鼓判を押してオススメしたい。

 

 

 

 のだけど、

 

 裏を返すと 「それ以上の作品ではなかった」 というのが読み終わった正直な感想であった。確かに大賞受賞作の名に恥じない品質の作品で、随所にゾクゾクする怖さを備え、章ごとに主人公が切り替わる話の構成や、回想的な時系列の追い方が巧みで中弛みがなく、最後まで綺麗に纏まっている。

 

 いや、纏まりすぎている、と感じたのだ。

 

 作者は間違いなくホラー作品に精通しており、先人達の残したテクニックを作品内にとても効果的に散りばめている。あまり重要な物を挙げるとネタバレになってしまうので控えるが、例えば最初の回想に「認知症の祖父」が出てくる。

 ホラーファンは予想できるだろうが、ホラーにおける認知症の老人、物心つく前の小さな子供、あるいは植物状態の患者、などといった「コミュニケーションをとれない者たち」が担う役割は一つだ。

 彼らは突然何かが乗り移ったかのように明瞭に言葉を発し始める。これは解っていても背筋が寒くなる演出の一つだ。本作の認知症の祖父も日頃は「おかあちゃん、おかあちゃん」とうわ言を繰り返して家族の手を焼かせているだけの存在だったが、ただ一度「ぼぎわん」が家を訪ねてきた時だけ正気を取り戻し、「帰れ!」と追い払った思い出が主人公の記憶に焼き付いている。

 ホラーにおいて「お約束の演出」は悪い物とは限らない。「怖さ」という感情は予想できても抑えきれないものであり、もっと言えば「予想できてしまうからこそ怖い」という種のものまであるからだ。これは功罪あるホラー作品の特色の一つと言える。

 以前『淵の王』のエントリでもちょっと触れたが、ホラー作品において「嫌な予感」は非常に重要で「どこかで見た演出」は読者に嫌な予感を与える小道具としてかなり效果が高いのである。

 

 背後に気配がする→振り返っても何もいない→ほっと一息つく→再び前を向くと化物がいる。

 

 という演出が飽きもせず色んな作品で使われているのは、視聴者にとって「わかっていても(わかっているからこそ)怖い」からなのだ。

 

 話を戻す。

  著者はこういった演出やテクニックに長けており、要所々々で本当にゾクゾクくるシーンが多々ある。しかし得体の知れない化物を扱うはずのこの物語が、全体としてのその完成度の高さ故に理路整然とした「安心できる仕上がり」になってしまっている。物語そのものに歪さ、奇怪さ、違和感がなく、話の大筋にも随所の演出にも陳腐な言い方だが「目新しさ」があまりない。

 もしこれが既にデビューしている作家の新作であれば、私はホラーの一秀作として大いに満足して本棚に戻したに違いない。

 しかし、本作はジャパニーズホラーを牽引する「日本ホラー小説大賞の大賞受賞作」なのだ。既存の枠組みの中で丹念に磨かれた傑作よりも、ホラー小説の新機軸になるような怪作を求めてしまうのは人情というものだろう。非の打ち所のない優等生ではなく、荒削りでも個性光る問題児を見たかった。

 同賞が過去に輩出した貴志祐介の『黒い家』や瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』などと比較すると、その完成度では引けをとらないどころか、上回っているとさえ感じる。しかし、それら過去の受賞作が持っていたほどのインパクトを感じないのは、やはり著者がホラーに精通しすぎており、先人達への尊敬の念がかえって足枷になってしまったのではないかと訝ってしまうのだ。

 付け加えて言えば、作品の終盤から結びにかけても、綺麗に収束していくが故にホラーとしては少々弱さを感じた。グッドエンド、バッドエンドは個々の好みの問題だからどちらでも構わないのだが、理不尽な化物にやや人間味のある「道理」を感じてしまったり、真打ちの霊媒師もややファンタジーに寄せ過ぎ強くし過ぎたという感はある。やはりホラーとしては「頼りになる味方」は限定的な使用に留めて欲しい。

 

 ただ、これらは難癖に近い贅沢な品評であって、繰り返すが本作が一ホラー小説として傑作なのは間違いないし、作者である澤村伊智は今後ホラー小説の名手になりそうだという期待は大いに寄せられる。

 

 

 

 で、ちょっと長い余談になるのだけど、これは本作がどうこうというより「新人賞受賞作」にありがちな話を一つ。

 

 言うまでもなく、公募新人賞に応募してくるのはそのほとんどがすぶの素人である。(既に別の賞でデビューしてるプロが名義を変えて送ってくることもあるそうだが)

 有名な賞なら送られてくる作品数は数千にものぼる。とある審査員を務めた作家の話によると、そのうち8割以上は箸にも棒にもかからない駄作であり、小説の体を成してすらいない文章も少なくないらしい。

 つまり「読んでらんない」のである。全ての作品を結末まで、など。

 出だしの数ページを読んで「あ、駄目そう」と思ったら即足切り。数ヶ月を要して書いたそれ以降の数百ページは、読んですらもらえない。

 シビアだが仕方ない。審査員だって暇じゃないし、人手が足りないからだ。

 問題なのは公募新人賞において「徐々に盛り上がっていくタイプの作品は不利」だということだ。後半にどれだけ心躍る展開やどんでん返しが控えていようと、そこまで読んでもらえる保証がまずない。山場まで読んでもらって「つまらない」の烙印を捺されたなら納得もいくというものだが、最初の数ページだけで資源ゴミ扱いされるのはたまらないだろう。一次審査などでは落選理由もおそらく告げられず、どこまで読んでもらえたのか分からないことも多いはずだ。

 当然そういった事情は応募者達も把握していて、作品冒頭から何らかの工夫、対策が必要になってくる。

 

 とは言っても、物語には起承転結というものがあり、話の最初から強引に派手な展開にしたり、人物造形や文章力、あっと言わせるカマシだけで目の肥えた審査員達を引き込むのはそう簡単ではない。

 そこで昔からてっとり早くよく使われている策が「山場から見せる」というものだ。所謂「冒頭に死体を置け」である。

 小説に限らず、映画でも漫画でも、物語は過去から未来へ順番に語らなければいけないわけではない。極端な話、結末を最初に見せてしまう作品だってある。

 時系列通りに並べれば本来中盤以降にくるはずの緊迫感あるシーンを、あえて作品の冒頭にぶち込む。そしていい所で引いて

「どう? 何故こんな状況になったのか、この後どうなるのか、気になるでしょ? じゃあちょっとこうなった経緯を一から語っていきますね」

 という具合に改めて、回想的に「起」から綴っていくわけだ。こうすれば少なくとも「見せ場」は読んでもらえることになる。

 とはいえ、この手法は昔から、とりわけ新人賞においては散々使い古されており、審査員はおろか応募者も、そして読者もいい加減飽き飽きしているのは間違いない。ただ、愚直にこの手の構成に頼る作家志望達を責めるのも気の毒に思える。どちらかというと、これは公募新人賞のシステム的な欠陥だと思うからだ。

 

 で、なぜこんな今更な話をしたのかというと、そう、この『ぼぎわんが、来る』も、その「よくある構成」を使っているからだ。しかし、これをこの作品のマイナス点としてあげつらうのではない。むしろ賞賛すべき效果を発揮した稀有な例なのである。

 本作の冒頭はいきなり「ぼぎわん」が自宅を訪問(襲撃?)しているシーンから始まる。主人公はスマートフォンを片手に、電話の向こうの霊媒師らしき人物からのアドバイスに従って、あえてその化物を家に招き入れようとしている。そして、電話先の人物は言う「ここからは私の仕事です」と。

 そこで引きが入り、物語は主人公の少年時代の回想に移る。これだけ読むと、まぁ本当によくある構成だ。正直、私もここまで読んだ段階では鼻白んでしまった。まぁ、応募作だし仕方ないわな、と。ところが、これは単なる「新人賞対策」では終わらなかった。

 

 物語が進み、この「ぼぎわん」なる化物が執拗に主人公を探していること、そいつはどこか「遠くからやってくる」ことなどが分かってくる。周囲の人間が被害に遭い始め、だんだん危険が主人公一家に近づいてくる。つまり「ぼぎわん」はこの主人公に「空間的に」どんどん迫ってくるのだ。

 では、この物語を追う読者はどうか? 読者は冒頭で化物の襲撃シーンを見せられている。そしてその直後から、そのシーンまでの経緯を回想的に追っている。つまり、この本のページをめくる度に、読者はその「ぼぎわんの訪問」シーンに近づいていく。いや、その場面がどんどん「近づいてくる」のである。

 そう、冒頭に例のシーンを置いたことで、この「ぼぎわん」は空間的には主人公に迫り、時間的には読者に迫ってくる、という見事な構成になっているわけだ。章ごとに別の人物の視点にして多角的に事件を追う構成といい、本当にストーリーテリングの巧みさが新人のそれとは思えない。

 

 

 

 以上、新人作家のデビュー作としては完成されすぎていて物足りなかった部分はあれど、総評として著者の澤村伊智にも、そして日本ホラー小説大賞にも、これからを期待できる上質のホラー作品だった。おわり。