悪意と狂気 ――米澤穂信『儚い羊たちの祝宴』

 

 誰が言っていたか忘れたのだが、人間の狂気を描けるのは正気で計算高い人間だそうだ。誰が言ったか分からない言葉に同意しても仕方ないのだけれど、その通りだと思う。口の端から泡を吹きながら支離滅裂な言葉を口走り、自身の損傷さえも顧みずに不可解な動きで暴れ回る人間がいたとする。それは確かに現実で目の当たりにすれば恐れ慄くような狂気を肌で感じるに違いないが、フィクションで同じように描いてもきっと作り物めいた気狂いの演技に見えてしまうことだろう。人が狂気に恐怖を感じるのはそれが「秩序」と相反するものであるからだ。

 現実はどうしようもなく秩序と規律と反復で構成されている、だから人はちょっとした非日常をドラマチックだと感じ、他人の普段と違う言動に過敏に反応してしまう。しかしフィクションはそもそもが作り物の世界で、冒頭で人が殺されようと、猫が喋ろうと、主人公が虫になっていようと、今更驚く人はいない。そんな世界で狂気を感じてもらうにはそれ以前に正気を持って秩序を描けないと話にならない。それを破ることが「狂う」ことなのだから。この手の作品で真っ先に挙がるのは夢野久作の『ドグラ・マグラ』だろうけど、読めば読むほどあれが恐ろしく計算高く書かれていることを感じた人は少なくないはずである。

で、そろそろ本題に。

 

米澤穂信儚い羊たちの祝宴

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)

 

 

 今まで米澤穂信の作品は『氷菓』三部作、『犬はどこだ』『ボトルネック』『インシテミル』と読んできたが、その中では今作が現時点での最高傑作だと感じた。というか何故今まで読んでいなかったのかと後悔している。もちろん本作が3年くらい前に発表されていたことは知っていたのだが、端的にいうと裏表紙の粗筋が悪い。そこだけ読んでもあまり興味を引かれなかったのだ。まぁ、それはよくあることなので恨み事を言っても仕方がない。

 本作は5つの物語から成る短篇集であり、それぞれの話が読書サークル「バベルの会」というキーワードで繋がっている。5つのエピソードは全て豪族と言えるほどの金持ちの家で起こる悲劇や悲劇っぽいものであり、語り手がそれぞれの家の関係者である女性達となっている(男性でない理由も最後に解る)。暗黒ミステリなどと謳っているものの、謎解きの要素はそれほど強くなく、どちらかというと胸に淀みができるようなダークの方の要素を感じたい人向けだと思う。中でも個人的に気に入ったのは『北の館の罪人』と『玉野五十鈴の誉れ』の二編でどちらもオチまで綺麗に決まっていて、やや引きつった唇から「ヒューッ」と乾いた笑いがこぼれた。

 

 本作はどのエピソードも悪意あるいは狂気が控えめな口調で語られているが、それらがもたらす悪寒を大きく助長しているのが「」という閉塞された舞台である。主にホラーやミステリの舞台で、館や孤島といったクローズドサークルはお馴染みだが「人の住まう閉塞された環境」というのはそれとは一味違った気味の悪さがある。人がいないよりはいてくれたほうが安心な気がするのに、これは何故だろうか。例えば『ひぐらしのなく頃に』は小さな集落が舞台だった。そこには確かに善良な人達も暮らしているし、規律がある。それなのにどこか薄気味悪いのは、おそらくこの規律こそが厄介だからである。フィクションで登場する外界と離れた小さな村にはしばしば妙な決まり事や風習があったり、些細な事に村人が過敏に反応したりする。それが彼らの得体のしれなさを演出し、その裏に隠れてる真実を匂わせたりする。

 国の法律と、学校の規則、どちらが大事だろうか。国が決めた法律だろ、当たり前だと思われるかもしれない。しかし人はしばしばより広範に適用されるルールを無視してまで身の回りの規則を優先する。世界間で結ばれた条約より国家の法律を、法律より自分の所属するコミュニティ内(会社、学校、家庭、あるいは友人間)のルールを優先してしまうことが少なくない。それは、より身近なルールを破ることのほうが自分の生活や立場をダイレクトに脅かすことになるからだ。だからこそ一向に環境に配慮しない大国がのさばっていて、サービス残業を無理に止めさせてまで労働基準法を遵守する経営者は少なく、サークルの伝統なんぞに従い未成年が酒を飲む。

 何が正気で何が狂気なのかはそれを見る人によって決まる。対象者によってではない。中で過ごす人々にとっては当然に、あるいは必要に迫られて守っているルールや風習や教育も、外から見れば異常に見えることがある。それは外の人々が自身と自身が守る規律を正常だと信じているから異常に見えるだけだ。本作に出てくる「家」はどこも浮世離れした名家である。それらは一般家庭と比して不可解なほど極端な規律によって秩序が保たれており、登場人物の悪意や狂気の多くはそこを根源としている。その結果、彼女らは驚くほどどうでもいい理由で人を殺す。しかし狂っている(ように外から見える)のは人間ではなく規律の方なのである

 本作で描かれているのが「狂気」か「悪意」かははっきりとは言えないが、悪意だったとしても彼女たちのそれは基本的に憎悪や怨恨、嫌悪などからくるものではない。規律と秩序、家のシステムが生み出したある意味で純粋な殺意だ。親の言うことをよく聞き、慇懃に主人に仕え、良き友として笑い合っていた人物が、突如人を手に掛ける。善良さという表向きの一貫性(秩序)を突き破って出てきた腹の中の悪意、そのくだらなさを知った時、きっと気持ちのいい寒気を読んだ人に与えてくれるはずだ。

 

 こんなことを書いたけど5つの物語、どれもこれも胸糞悪くなるのかというとむしろそんな話は少ない。どちらかというと切なかったり、いたたまれない気持ちになったり、ブラックな笑いさえも提供してくれる本作だが、不満が一つ。いや、これは不満というより自分の無知を棚に上げたワガママで、負け惜しみだ。

 作中いくつも有名ミステリ作品のパロディやオマージュがおまけ要素的に散りばめられていて、おそらくミステリファンへのサービスだということは理解しつつもそれが少し鼻についた。ただ、これはミステリというジャンル自体に根付いているの風習のようなものだから米澤穂信にいっても仕方がない。本作中のネタもいくつは分かったが分からないものも多かった。率直に言って悔しい。自分もまだまだ読み込みが足りないライト層だな、と。