失われたリアリティと作家の功罪

 

 小林泰三の『失われた過去と未来の犯罪』を読んだ。

 タイトルからタイムトラベルものかなと期待して粗筋を読んだのだけど、どうも人間の記憶に関する話らしい。特に凝っているわけでもないのだが、最近は人間の精神や人格に関する本をたまたま続けて読んでいたということもあって興味をひかれた。

失われた過去と未来の犯罪 (角川書店単行本)

 

 小林泰三は過去にも「記憶」をテーマにした作品をいくつか書いていて、本作は特に短編集『天体の回転について』に収録されている『盗まれた昨日』を発展させた話であると言える。

 ある時どこかの国の行った実験によって人類が皆、映画『メメント』のような前向性健忘症に陥ってしまい、人間の脳はある日のある時点からの短期記憶力を失ってしまう。世界中が混乱に陥る中、冷静な一部の人間たちが細かくメモを残すことなどによって他人を啓蒙し、かろうじで社会システムを維持することによって何とか文明を守った。その後、人間の脳に代わって記憶を保存する外部メモリが開発され、人間は記憶力を取り戻す。

 しかし件の「大忘却」以降に誕生した世代の人間は自身の脳に全く記憶が蓄積されておらず、生まれてからの全ての記憶をメモリに記録することで人生を営んでいる。まるでデータの全てをUSBメモリに保存しているパソコンのような危うさを抱えた人間達が様々な「事故」や「犯罪」に巻き込まれていく、というのがおおまかな粗筋だ。

 

 それぞれのエピソードの一貫したテーマとして「記憶」とは「人格」あるいは「魂」そのものなのかという問いがある。これは一度は考えたことのある人も多いのではないか。もし、自分と隣人Aの記憶が全て入れ替わってしまったなら、私の身体の意識は、人格は、その隣人Aそのものになってしまうのではないかという空想。それがこの作中世界では実に簡単に試せてしまう。他人とメモリを入れ替えればいいのだ。

 各エピソードはそのようなメモリの入れ替えを意図的、偶発的、緊急措置的、と様々なシチュエーションで語ってみせる。記憶をそっくり交換したらどうなるか、というテーマ一つでここまでバリエーションに富んだ物語を考えだすあたり、小林泰三はやはり一級のストーリーテラーだと見直すことができた。

 

 私は生憎記憶喪失というものを自身で経験したことも、周囲にそうなってしまった人間も過去にいないのだが、ドラマなどで見る記憶喪失になった人物は以前の性格がどうであれ大抵おとなしくおっとりした人格になってしまう。人格とは「記憶」で決まるのだろうか。(私は過去の体験と記憶のみでこんなずぼらな性格になってしまったというのか)

 作中の人物たちは他人の身体に自分のメモリを挿すと皆、主観、つまり意識がそちらの身体へ移ってしまう。これは直感的に理解できるようで何かがひっかかる。

「人格」を交換する、逆に言うと「身体」が入れ替わる、という話はフィクションではよく見かける。しかし本作で起こる事態はあくまで「記憶」だけ、もっと言うと「記憶として記録されたデータ」だけの入れ替えであり、脳や魂を取り替えるわけではない。これはパソコンから別のパソコンへUSBメモリを経由してデータを移すのと何ら変わらない出来事のはずだ。

 私の身体から私の記憶を取り出して弟の記憶を入れたからといって、それだけで私の心は弟になってしまうのか。なんだか腑に落ちない。記憶がある程度人格を形作るというのはわかる。しかし私を含む多くの人は記憶とはまた別にその人固有の人格、意識、心、魂、といったものの存在をぼんやりと信じているはずだ。記憶こそがそういった人格や意識そのものだ、と言われてもあまり納得がいかない、が、どう否定していいのかもわからない。

 まぁとりあえず記憶こそが私の「人格」であり「意識」なのだとしよう。しかし、まだややこしい問題がある。「私」とは「肉体」のことを指すのか「記憶」のほうを指すのかどっちなのだろうか。

 

1,「私」とは生まれつきの四肢と脳を持ったこの「肉体」のほうだ、とすると、メモリを入れ替えた後も「私」とはあくまで元の肉体のほうであり、私は他人の「記憶」によって乗っ取られている、ということになる。

2,逆に、肉体を単なる「入れ物」として考え、私の本質とは「意識」であり「人格」であり、つまり「記憶」のほうだと考えると、メモリを入れ替えることで「私」は他人の身体に乗り換えた、ということになる。

3,「私」とは「肉体」「記憶」どちらか一方に寄るものではなく、二つがセットになって初めて「私」といえる。という考え方ももちろんある。しかしその場合、メモリを交換した二人の人物はそれぞれ元の人物両者のどちらでもない別の新しい人間、新しい「私」になる。

 どれもそれ相応に説得力があって、しかし決め手にかけるように感じる。

 

 と、いったような考えを作中の人物達も葛藤し、読者は混乱する。寝る前に何気なく考えてしまって眠れなくなるようなことはあっても、なかなか真剣に考えたことはなかったので面白く読むことができた。さすが小林泰三、万歳!

 

 

 

 と、感心しきりで読み終えられたら良かったのだけど、やはりいささか腑に落ちないというか、読んでいる中で全く別の葛藤を抱えることになってしまった。おそらく作者自身も。

 それは「物語のためなら設定を甘くしていいのか」という問題だ。言い変えれば「物語に都合よく世界を作ること」はどこまで許されるのか。もちろんこの作品に限らず世の多くの作品に私は同じ種の不満を持っている。具体的にこの作品で言うと、

 

  「メモリが簡単に取り外せる設定はさすがにマズいんじゃないの」

 

 という一点に尽きる。これはこの作品を読んだほとんどの人が同じ感想を持つと思う。

 こういうことにつっこむと「フィクションに野暮なこと言うなよ」という人がいる。メモリを手軽に外せる設定にはとりあえず目を瞑って、そこから生まれる物語を純粋に楽しもうではないか、と。そういうスタイルでの作品鑑賞を私は強く否定するつもりはない。

 私の考えるフィクションにおける「リアリティ」とは現実と比べてどうという話ではなく、端的に言って「説得力」のことだ。「物理的にありえない」とか「登場人物の言動が不自然だ」とかそういった面が気になることは少ない。物語としてその設定が説得力のある形で使われていれば良い。

 本作のキーワードである人類の「大忘却」の原因は「某国が行った核実験もどきの影響」というざっくりとした説明だけで済まされている。でもそれはいいと思う。そもそもこんな現象に無理矢理理屈をこねて説明しようとすると却って安っぽくなる恐れまである。

 その後、人類は混乱に陥るが一部の人達が状況を的確に理解し冷静な対応をとる。ふつう記憶が続かない状況でこんなに頭が働くものか、とも思ってしまうが、これも構わない。私には無理だと感じても、70億人の人間がいればそういう人も中には少なからずいるだろうと納得できる。

 そして肝心の外部メモリが開発される。人間の記憶をデジタルに保存する、その仕組みを丁寧に説明しろとも私は思わない。SFの事象やアイテムなんてものは現代の科学では突き詰めて説明できるわけがないからサイエンス・フィクションなわけで、そこに厳しくつっかかるのはそれこそ野暮だろう。

 

 しかし、である。

 メモリという便利なものがとにかく開発され普及した新しい世界ができた、そこまでは何ら違和感なく読み進められる。現実の物理科学ではありえないものの存在は面白い。私がもやもやしているのは「そういうものが存在する前提の世界、社会、をきちんと作って欲しい」という思いからだ。

 外部メモリという人間にとっての新たなライフラインが開発された。ならば当然社会はそれに適した法やシステムを作り上げるはずだ。そのような議論がなされた時、即座に「メモリを簡単に取り外せたり、何かの拍子で外れてしまうようではマズい」と誰かが、というか誰もが考えるに違いない。

 そうなるとメモリは脳に埋め込まれたりなどして、病院で手術しなければ取り出せないようになっていたり、のっぴきならない事情で取り外すにしても、役所で煩雑な手続きを踏まなければならなかったりしなければおかしい。さらに言うと、メモリの入れ替えなどという行為もすぐに誰かが思いつく。メモリと肉体は何らかの認証機能によって固くひも付けされるのは目に見えている。

 USBメモリのようにサッと引き抜けて別の身体に挿すことができ、それで記憶が入れ替わってしまうようではさすがに「リアリティ」がないと言われても仕方ないのではないか。簡単な道理を無視した「気軽に抜き挿しできるメモリ」というのは、結局のところ、はなから「他人の身体に挿すこと」を目的にデザインされていると言っても過言ではないのである。これを「野暮」の一言で済ますほど私は物語に寛容になれない。

 社会の基盤を構成するシステムがエンジニア一人の暴走で揺るがされたり、重要人物がボタンを押すだけで核ミサイルが発射されたりするような作品は多々ある。そのような設定は、それによって人々が混乱を起こすことを前提に設計されていることが明白である。私はそういう作品に触れる度に「少々人間を馬鹿にしすぎじゃないか」と思ってしまうのだ。

 

 しかし、当然ながらプロである作家たちがそれに気づかないほど愚かなはずがない。言うまでもなく、あえて彼らは設定を甘くしているのだ。物語のために、ドラマチックでスリリングな展開のために、彼らは設定を妥協し、綻ばせ、時には殺す。

 小林泰三もこの「メモリの扱い」については、あり得べき批判として予想しているはずである。しかし妥協せざるを得なかった。でなければ、不注意に、故意に、咄嗟に、記憶が入れ替わってしまう物語など書けないからだ。

 この手の葛藤は作者だけでなく読者をも悩ませる。設定が甘いのが気に食わない。しかし、それによって紡ぎだされるこの物語は素晴らしい。そしてその「甘さ」がなければこの話が生まれないことも理解できる。しかし目を瞑るにはちょっと目に余る……。

 結局「一部設定の弱さが目につくが、全体としては面白い話だった」という月並みの感想しか出てこなくなってしまうのだ。うーん。しかし読み終えた私はこの作品をそれだけの言葉で片付けたくないとも感じている。

 

 現実ではなかなか人間社会を揺るがすような大きな事件は起きない。曲がりなりにも世の中のリーダー達が知恵を絞って安全なシステム構築に腐心しているからだ。厳密に作られ、管理された世界からドラマを生み出すのは難しい。だから作家自らが世界に少しの綻びを作る。それは仕方のないことだとも思う。 

 

「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。

 あれは現実世界が何かドラマチックな物語のために設定されていないからだ、と言えるのではないか。現実の人類はドラマもスリルもない平穏を求めたシステムを目指している。にも関わらず、時には思いもよらぬ事象が発生する。それは初めからその展開のために設定されたフィクション世界の出来事よりも我々に驚きを与える、ということだと私は解釈している。

 現実は平穏で退屈だ、少なくとも日本はそうだと思う。だから我々はフィクション世界に刺激を求める。しかし身勝手なことに「刺激のために用意された世界」では不満なのだ。現実的でなくていい。でも綿密に作られた世界の穴をぬけて湧いてくるようなドラマが見たい。もしかすると私は、フィクションを通じて厳密な現実世界の面白さを再認識したいのかもしれない。ちょっと目の肥えた受け手がリアリティ、リアリティ、とうるさいのは、つまりそういうことなのではないかと思う。

 

 小林泰三も罪な作家の一人である。

 こういう不満が生まれるのは皮肉にもいつも素晴らしい「物語」からなのだから。