ウソについてのホンネ
嘘をついても許される日、エイプリルフール。しかし巷に花を咲かせる「嘘」は嘘と言うよりジョークばかりではないか。各企業、機関、著名人には普段なら問題発言として炎上するようなことをどんどん言って欲しいものである。そしてそれを今日だけは許せるという寛容さを持った人だけがこのイベントに参加して欲しい。そうでなければ誰が言い出しかわからないこんな慣習に乗っかる意味は無い。世の中は普段から嘘に溢れていて、その大半を我々は黙殺し、許容し、利用して生きているのだから。もちろん「冗談を積極的に言う日」としては楽しい。
それにしても一体全体「嘘をついてもいい」とはどういうことなのか。「嘘」を普段は言ってはいけないものだとする前提がないとこんな文言は出てこない。確かに幼少の頃、ほとんどの人間が親や先生から「嘘をついてはいけません、正直でありなさい」と教わる。時には胡散臭い童話を添えられて。しかし、それは子供に嘘を教えてもロクな使い方をしないからである。いくら便利でも刃物は与えられないように。
明らかに我々は嘘を駆使できるからこそ人間関係を、引いては社会を上手く回せているのだし、人のつく数ある嘘の中で相手を不快にしたり不利益を被らせたりするものは一部に過ぎない。自動車事故が人を殺すから車は悪だとするのは暴論であるはずだ。むしろ現代社会において「正直者」なんてのは単に嘘をつくのが下手な不器用さんを揶揄した呼び方に過ぎないし、彼らは空気を読まないし、馬鹿をみる。
それでも我々は「嘘」にどこか後ろめたさを覚え「正直さ」への憧憬を捨てられずにいる。他人の歯に衣着せぬ物言いにどこか安堵することがある。気遣いと建前の言葉を浴び続けて息苦しさを感じることがある。それがどんなに損なことだとわかっていても本音や慈悲のない正論を投げつけてやりたくなることがある。何故か。
「やさしい嘘」という言葉があるが、あまり好きではない。いちいち「他者への気遣い」を「嘘をつくことへの後ろめたさ」に対する免罪符にしているからだ。たとえどんな場面であっても「嘘」は自分のためにつくものだ。もっと言えば「相手を気遣う」ことそれ自体が自分自身のためだという自覚をもって行わなければならない。(だからその際に後ろめたさへの言い訳はいらない)そうしなければそれは「上から目線の独善的な行為」になりかねない。「自分のほうが大人だから」と判断するからこそ、相手を持ち上げたり意見を譲ったりできる。誰かが失敗を犯した時に「彼が弱く傷つき易い」と勝手に決め付けるからこそ、叱咤ではなく慰めの言葉を選ぶことができる。
酷く穿った見方に感じるかも知れないが優しさの本質とはそれであるはずだ。その瞬間において相手より下からの目線では優しくすることなどできはしない。それでも自分だって人に気を遣える優しい人間が好きだし、自身もそうありたいと思っている。ただし、全て自分自身のために、だ。
「嘘」を悪いこと、後ろめたいことのように感じる原因は、それが引き起こす良い結果と悪い結果の不均衡にあるのではないか。善意による嘘、例えば、同情、慰め、お世事、それらの嘘は気づかなければささやかに気分を上向けることができるが、嘘だと悟ってしまうと上で述べたような「見下されたような」感じがどこか付きまとう。相手の優しさに感謝しつつもそれがかえって自分を惨めに感じさせることもある。
一方、悪意ある嘘の場合は気づかないと何らかの被害に遭い、気づいて実害を避けられたとしても、騙された、裏切られたという強い負の感情が芽生える。人間は善意よりも悪意を強く印象に残してしまう生き物だ。普段どれだけ親切な人でも一度の暴言によって周囲の株を大きく下げてしまう。
そして、我々は「頻度」を「インパクト」によって上塗りしたまま結論付ける。日頃の人間関係において善意による嘘のほうが悪意ある嘘よりも遥かに多いという事実を忘れてしまう。銃は人を撃ち殺すための道具だし、嘘は人を騙し陥れるための手段だ、と。
それでも人は他者と時間を共にする中で嘘と上手く付き合い出すのだし、無理に美化する必要もないのだろう。そうした後ろめたさは濫用を防ぐ弁には確かになっているはずだ。ドイツには「嘘は絞首台への第一歩」という諺があるとかないとか聞いたことがあるが「どろぼうの始まり」程度で済んでる日本はまだ寛容な方かもしれない(神に対する背徳感があまり無いから?)
同じ諺で言うなら「嘘も方便」の方を取り入れて、大半の人が絞首台のではなく大人の階段(らしきもの)を上って、嘘と優しさに満ちた社会の構成員になっていく。正直で不遜な人間に仄かな憧れを抱きながらも、いつの間にか上手く嘘を扱えるようなっている自分に寂しさと少しの矜持を感じながら……。
と、実はオチが思い浮かばなかったから適当にポエミーに締めたれ!とここまで書いてなんかちょっと分かった気がする。
何の気遣いも策略も悪意もない、純粋で下らない「嘘」を好きなだけつける日、年に一日くらいあってもいいな、って。