魔性の遊戯

 

 人生を麻雀に例えたがる麻雀打ちは少なくない。縮図とまでは言わないまでも確かに似通う所があるし、少なくとも人生ゲームよりは人生を表しているように思える。

 麻雀で最初に各プレイヤー配られる13枚の牌のことを配牌という。この配牌の良し悪しは完全に運任せであり、打ち手の意志が全く介入しない。人生で言えば出生時のスペックだ。顔立ちがいいだとか親が金持ちだとか、人類皆平等なんてのは嘘っぱちで生まれた時点で抗うことの出来ない有利不利があることは周知の事実だろう。その後は山にアトランダムに積まれた牌を各々引いて最も要らない牌を切り捨てていく。運要素の強いこのゲームにおいてここが最も腕の分かれるところだ。人生もやはり取捨選択の連続であり、自分にとって大切なものと不要なもの(あるいは悪影響を及ぼすもの)を取り違え続けると、少しずつ明るい未来が閉ざされていく

 この点でもう一つ麻雀と人生には面白い共通点がある。麻雀は他のプレイヤーの手牌を覗くことができないが、捨てた牌は全員に晒される。そして、あなたが他人の人間像を知ろうとするとき、実は最もわかりやすいのは彼らがそれまでの人生で何を「得てきたか」ではなく、何を「切り捨ててきたか」ではないだろうか。勉強をサボってきた人、仕事もせずブラブラしてる人、恋愛に縁のなさそうな人、などというのは初対面でも何となしに窺われてしまう。しかし、それらを犠牲にしたことはわかっても、対価として何を得たのかは詳しく聞いてみなければわからない。それでも、彼らは必ず何か他人にないものを持っている。それが世間的にはどれほど取るに足らないものであっても、捨て続けるだけの生き方なんて常人には出来ないはずだから。

 さて、このように人生に例えられたりする麻雀というこのゲーム、皮肉なことにそれ自体が人生の手牌に入ってきた時、まるでババ抜きのジョーカーのように真っ当な将来への足枷となることがしばしばある。そしてそれを切り捨てられずに私生活が堕落し、社会から脱落、あるいは疎外されてきた人間たちを何人も知っている。嗚呼、何を隠そう自分もその同類であるからだ。(ボードゲーム程度でそんな大袈裟な、とその中毒性を見くびってはいけない。発祥の地である中国ではかつて麻雀によって人民が堕落しすぎたせいで禁止令が出されたほどである)

 前置きが長くなったが書評である。

 

  須田良規東大を出たけれど 麻雀に憑かれた男

 東京大学という日本の頂点に位置する学校を卒業したエリートでありながら、麻雀の魔力から逃れることができずに会社を辞めプロ雀士となった筆者が、雀荘のメンバーだった時代、そこで起こった様々な人間模様を綴ったエッセイ集である。(当ブログは一応、書評、日々の生活で疑問に思ったこと、たまに麻雀の話などを中心に記事を上げていくつもりでいるので、ある意味最初のレビューには相応しいかなと)

 

東大を出たけれど 麻雀に憑かれた男

東大を出たけれど 麻雀に憑かれた男

 

  

  一度でも足を運んだことのある人ならわかると思うが、雀荘という場所に足繁く通のはやはりどこか人生の大通りを逸れて脇道に入ってしまった人々という印象が強い。さらに学校卒業後も雀荘のメンバーをしている人ともなれば脇道どころか獣道まで迷い込んでしまったとさえ言える。

 そんな筆者の語りはどこか厭世的で達観しており、退廃的なのに不思議と明るい登場人物達の織りなす全46のエピソード(一話4~6項程)は、彼の筆力も相まってか、どれもこれも哀愁溢れる話に仕上がっている。創作じみていたりやや話を盛ったと思われるエピソードもちらほらと見受けられるが、興醒めしてしまうほどではない。『深夜食堂』という漫画をご存知だろうか。読感としてはあの手の作品に近いものがある。

 また、戦術本ではないのでこれを読んで麻雀が上達するとか、逆にルールを知らないと全く理解できないということはないが、話の一環として牌理や押し引きに関する説明が出てきたりするため、基礎的な麻雀の知識はあったほうがより楽しめるのは間違いない。

 この本に出てくるのはどいつもこいつもろくでなしばかりだ。無論そういう人間のエピソードを集めたものなのだから当然といえば当然なのだけど、それを踏まえても経験則として麻雀打ちにはろくなのがいない。しかし、それはあくまで社会から見たはぐれ者なのであって個人として付き合うのならきっと魅力的な人もたくさんいる。自分の周りもそうだ。麻雀は選択、押し引き、洞察力がモノを言うゲームだ。自然と麻雀打ちは損得勘定や人を見る目に長けていることが多い。ただ、皮肉なことにそういった能力の優れた打ち手ほど、それを活かす場所を失くしていく。

 いくら奥が深いと言っても麻雀なんて所詮は賭け事、暇つぶしのゲームに過ぎない囲碁や将棋と違ってどれほど上手くなってプロになろうと、尊敬の眼差しも裕福な暮らしも得られない。人生の手牌に麻雀という牌をツモって来た時、どこかでそれを切り飛ばし、以後は嗜む程度に付き合っていくのが真っ当な人間というもので、麻雀と引き換えに大切なものを切り捨てて道を狭めていくなんて愚かなことに違いない。気づいていたのに振り払えなかった後悔、真っ当な仕事と暮らしへの憧憬、そしてそれでも麻雀が好きなんだという思いが、この作品の端々から溢れている。

 本作はこのような一文で締めくくられる。最後まで読んで、こんな人間たちを馬鹿だと笑うも良し、それも一つの生き方だと頷くも良し、自分はこうはならないぞと戒めるも良し。

 未来も展望もない社会不適合者を、もちろん庇護して欲しいわけではない。ただ、こんな生き方をしている人間を――。明日も明後日もラス半コールなく打ち続けている私たちの存在を、頭の片隅にでも入れておいて頂ければ幸いである。

 

 いつだったか、日本は個性のない金太郎飴のような人間ばかりだと誰かが言っていた。とんでもない。望む望まざるはともかく、世の中面白くて険しい生き方を選んだ人たちが、たくさんいる。