縦横に割ってみる

 

 

 物語を面白くする一要素として「伏線」とその回収というのが挙げられる。作中である事象(例えば人物の会話等)から後の展開に繋がる事柄をさりげなく匂わせておくと、その「後の場面」が描かれた際、受け手に話の繋がりを上手く感じさせることができる。これは話の流れに説得力を持たせるだけでなく、パズルのピースが綺麗にハマった時のようなある種の快感を受け手に与える効果がある。作中で謎を出題し、後に解答を与えることを旨とするミステリ作品には必然的に頻出するが、ミステリに限らずこのような技術は「売れる物語」には不可欠といっても過言でないほど多用されている。

 しかし実際のところ上手く伏線を張ってそれを回収するというのは高度なテクニックであり、厳しく言えば失敗している作品も多い。失敗する主な原因としては「風呂敷を広げすぎて(伏線っぽいものを張りすぎて)収集がつかなくなる」「あからさまに匂わせすぎて後に想起されることがバレバレ(ただし、これは敢えてそうしている場合も多い)」「逆に目立たな過ぎて印象に残らず、大半の受け手に気付いてもらえない」「匂わせた事象が曖昧でどうとでも解釈することができ、ただの後付け扱いされる」などが挙げられる。前回エントリで叙述トリックについて取り上げたが、それとは比較にならないほど多種多様な物語で伏線は登場し受け手の目を養っている。そのため、さりげなく、かつ印象に残り、その上で受け手を納得させるような伏線を用意し、それらを全て綺麗に回収することは難しい。

 創作をする際「どうでもいいことは描かない」というセオリーがある。何のためにいるのか分からない登場人物(あるいはその人物の不要な設定)、どうでもいい会話、クドいだけで無駄な修飾や比喩表現、それら話の大筋に全く関与しない蛇足的要素は単に作者の自己満足として扱われ普通はダメ出しを食らう。それは逆に言えば、プロの書いた作中に一見無駄に見える事柄が出てきた場合、後の展開に何らかの形で関係している可能性が高いと読める。(ただし、昨今のライトノベル等にはそのような無駄な要素を平気で作中に取り入れている作品や、むしろそれを「売り」にしている作者も多いが)つまり、ある程度読書慣れしている人であれば伏線というものに気がつくことが多い。しかし、物語の核芯やオチとなることの多い叙述トリックなどとは違って、単に伏線というものは話を盛り上げるためのスパイスに過ぎない。失敗していようと、後にどう回収されるのか読めてしまおうと、それだけで駄作になるということはないはずだ。(それで駄作になっていると感じられる作品には多分それ以外に大きな欠陥がある)

 このように扱いの難しい伏線とその回収であるが、つまるところ受け手に「なるほど、こう話が繋がるわけか」という納得とカタルシスを味わってもらえればいいわけだ。それだけを目的とするならもう少し易しいやり方がある。それは物語をバラバラにするという方法だ。単純で解りやすい物語でもバラバラに描くだけで「ここがあの場面に繋がるのか」という面白さを受け手に与えることができる。その方法は大別すると二種類ある。縦(時間)の分割と横(空間)の分割である。

 

 縦、つまり時間の分割とは、話の時系列をキリの良い所で一度バラバラに分解し、順番を並べ替えて受け手に公開する手法。こうすると話の因果関係が不明瞭になり、先に「結果」の情報が唐突に与えられ、後にその「原因」が紹介される。正常に並べれば陳腐な話でも、そうするだけで受け手の脳内ではパズル的な情報の整理が行われ、多くの人がそれを少しは楽しいと感じる、という寸法だ。

 やや極端な例として蒼樹うめ原作の『ひだまりスケッチ』というアニメが挙げられる。いわゆる日常系4コマ漫画を原作とした大筋に起伏のないよくある学園物語である。しかしこのアニメ(原作はどうか知らないが)一話で作中の一日を描いており、正月の後に急に夏休みの話になったり、またクリスマスの話に戻ったりと、とにかく時系列が無茶苦茶に放送された。視聴者には覚えのない思い出話をキャラたちが語り合っていたり、唐突に主人公の部屋で青虫が飼われていたりして、その前提となるエピソードは後に紹介される。その結果、このなんてことない物語(貶しているわけではない。日常アニメはそれで良い)を追うのにちょっとした刺激が加わるわけだ。「あーなるほど、あの青虫はこの時貰ったキャベツについてたものだったのか」といった具合に。

(余談になるが、日常系アニメを放送する際について回る問題の一つに「現実の季節感とのズレ」がある。現実では三月なのに紅葉シーズンのエピソードが放送される、といった具合に。一年間の時系列をバラバラにして公開する、ということはこの問題について完全に開き直っているということでもある)

 もう一つ、高畑京一郎の『タイムリープ』という作品がある。大雑把に説明すると、正常な時間認識ができなくなった(木曜日に就寝したのに意識だけがその週の火曜日の朝に跳ぶ、といった具合)少女を、通常の時間の流れの中で生活する少年が手助けする話。この作品はメタレベルで時系列が入れ替えられているわけではないが、出来事の流れを時系列順に追うこと、バラバラに追うこと、この認識の違いの面白さをそのまま作中で描いたような作品となっている。

 そこまで極端な例でなくとも、エンタメ小説などでよくある手法として「冒頭で物語の重要な場面だけ先に見せ、しかし核心に迫る事実は見せずに、起点となる日常シーンに戻ってまた語り始める」というものがある。退屈な日常描写から話を徐々に盛り上げていくと面白くなる前に投げ出せれてしまう恐れがあるため、インパクトのある場面でまずは読者を話に引き込んでしまおうという狙いだ。これもまた時系列の分割例と言える。(ただし、この手の冒頭からの回想は使い古されて陳腐化しており、新人賞に応募する時にやるとそれだけで落とされる、というような話も耳にする)

 

 もう一つのバラし方は横、視点の分割、つまりは同じ時間に起こった事象を空間的、視点的に分割することである。同時期に起きた出来事でも別の角度から見ることによって不明瞭だった因果関係が見えてきたり、新たな事実が判明したり、全く違った真相に辿り着いたりする。最もメジャーなのは群像劇と呼ばれるジャンル。これは語り手となる人物を複数用意し、違う場所や異なった立場に配置することで物語を多角的に進行していく手法である

 例えば、作中である建物が爆発したとする。その被害に遭う人物の視点、遠くからそれを見て驚く人物の視点を描いた後、爆発に関わった人物の視点に移る。こうすると受け手に因果関係の順番が逆に与えられ、縦の分割と似たような効果が期待できる。成田良悟の『バッカーノ!』やADV『428~封鎖された渋谷で~』などがヒットしたのもこの群像劇的な効果が大きいに違いない。

 このことは別に群像劇や複数の視点を描く場合に限らず、視点が固定された通常の話を作る際にも意識はしておいたほうが良いと思われる。多くの物語には登場人物が複数存在し、語り手となる主人公が設定されているわけだが、何故その人物たちの中から彼(彼女)が主人公に選ばれたのか、ということを考えてみるわけだ。もちろんキャラクター性は重要になるだろうが、もしかしたら別の人物視点で話を作ったほうが面白くなるのでは? ということを少し意識してみるといいかもしれない。

 

 伏線を上手く張ってそれを綺麗に回収することよりは、いっそこのように物語をバラバラにしてしまったほうが「話の繋がり」を感じさせるだけであれば簡単だと思われる。その理由は一度真っ直ぐに作った物語を解体することや、外伝的に別人物の視点で描き直してみること、それらはさほど難しくなく、仕掛けの単純さの割には得る効果が大きいからだ。

 けれど、もちろんデメリットもある。時系列で話をバラバラにして受け手にそれを整理させることは一歩間違えると単に億劫な作業になりかねないし、やりすぎるとわけが分からなくなり投げ出される。また視点を多数用意して同時進行で描くと、これもまた度を過ぎるとややこしくなる上、話の大筋の進行が遅くなって中弛みを引き起こす。そして作者は読者と違い、物語の流れを結末まで全て把握しているため、自身で読み直してもこういった欠陥に気づかない恐れがあり、実際にそれを感じさせる作品も少なからず存在している。どのみち作者のセンスや力量は必要になるわけだ。

 

 

 何故、因果関係の順序が逆になったり、既に結果を知っている事象でも別視点で描かれたりしただけで話を面白く感じてしまうのか。それらには多分共通する要素が何かあって、人の物事に対する認識とか、アリストテレスの言ったような「知る欲求」とかが関わってくるのかもしれないけどなんか長くなりそうなので、これもまた機会があれば考えてみたい。

 まぁ、話作りと死体の処理に行き詰まったら、とりあえずバラバラに解体してみたら何か変わるかもよって話でした。おわり。