淵の王

 

 久々にブログ更新。はてなブログ今週のお題「ゾクッとする話」だそうなので、最近出たゾクッとする小説『淵の王』(著:舞城王太郎)の感想を。

淵の王

淵の王

 

  

 最初から不穏な暗い雰囲気ではなく、ほのぼの日常から急激に落ちるタイプのホラーというものがある。もちろんその落差を利用して恐怖を増そうという狙いだ。『ひぐらしのなく頃に』などがいい例で、タイムリーな作品だと『がっこうぐらし!』などもそうだ言える。

 この手の作品は日常パートが退屈になりがちで、受け身で観ていられるアニメならまだいいが、能動的に文章を追う必要のある小説でやろうとすると日常シーンにこそ工夫を凝らさなければ読むに耐えないものとなる。

 私はこの本作がホラー寄りの物語であると知らずに読み始めた。「なんか凄い小説」という曖昧な評判だけを聞いて手にとったのだ。付け加えて言えば、私は舞城王太郎という作家が嫌いではないがあまり得意ではない。筆力はあるが妙にくだけた文体、やや冗長な会話、女の子のちょっと背伸びしたキャラ造形など、あまり肌に合わないイメージが強かった。

 といったこともあり、評判ほど期待せずに項をめくり始めたのだが、まず気付く。これは二人称視点? いや、守護霊視点か背後霊視点か。とにかく「主人公を見守る何か」の目線で話が進む。文体やノリはいつもの舞城節、しかしこれは読むのに苦戦しそうだと気が滅入ったのは最初だけ、まだ女子高生の日常シーンなのに不思議とページをめくる手が止まらない。一見冗長に思える長い世間話も得体の知れない迫真さを纏っている。やはりこの作者の筆力は凄い。

 ちょっと賢しい女性のキャラもいつもの感じだなぁと苦笑まじりに読み進めていると、急に不穏な空気が流れ始める。電話先の友人がどこかおかしい。脈絡もなく、というわけではなく確かに前兆はあった。急いで友人の元へ駆けつけたところから実に気味の悪い展開、そして後味の悪い幕切れ。2章に移り、全く別の主人公に切り替わる。なるほどこういう話なのかと理解するとともに、全体の構成に感心する。

 本作は3人の主人公でそれぞれ3つの短編となっている。1章でこの作品の方向性を理解すると、2人目3人目の話は最初から「嫌な予感」持って臨むことになる。ホラー作品において「嫌な予感」はとても重要だ。ホラーゲームにしてもそうだが、実際に化け物が出てくる「山場」のシーンというのはもちろん怖いのだが、アドレナリンが出て(?)パニック的な恐怖になる。ゾクゾクした怖さを感じるのはそこに至るまでの過程、不穏な空気なのだ。ジェットコースターはゆっくり坂を上っている時が一番怖いというアレだ。あえて一つの長編にしないことで、日常パートでダレさせることなく読者に嫌な予感を与え続けることに成功している。

 

 二人目、三人目もそれぞれ背後霊的存在の視点から語られる。こいつらは一体なんなのか。共通しているのは皆主人公を愛し、暖かく見守っているということ。どうやら悪霊ではない。それどころか作中で一番の常識人たちである。主人公たちは皆善人で人柄も憎めないが、それぞれある種の強い執着心を持った人物達で、そのせいで危険な行動に走るというパターンになっている。そして背後霊達はそれを諌めたり嘆いたりする。当人達にその声は聞こえていないが、我々読者にとっては作中で最も共感できる優秀な語り手達である。そのため読者がまさに背後霊となって作品に移入しやすく、主人公達を客観的に追うことができるため、彼らの主観視点よりも却って臨場感を得られるという効果を発揮している。そのための二人称視点、ということなのだろう。

 ネタバレになるわけでもないので言ってしまうが、結末まで読んでもこの背後霊的語り手たちの正体がはっきり明かされることはない。それどころか作中の大半の謎は考察の余地はあれど説明されないままだ。よって全ての謎がすっきり明かされないと満足できないタイプの人には本作はおすすめできない。

 これはミステリー作品ではない。そしてホラーホラーと言っておいて恐縮だが、おそらくホラー作品でもない。とにかく「真に迫る気味の悪い話が読みたい」という方には強くおすすめしたい。特に「結局一番怖いのは人間だよね」と宣うホラー玄人の方にこそ一度読んでもらいたい。

 「怖い話をすると、怖いモノが寄ってくる」という話はよく耳にするし「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」なんて諺もあるが、実際に「人の恐怖や憎悪が具現化する」としたら? そんな程度にテーマを解釈していれば楽しめる作品だと思う。

 

 

  ちょっと余談になるが、ホラー作品には「幼い子ども」が出てくる作品が非常に多い。これは何故だろう。本作にも小さな子どもや赤ん坊が不気味な役割を持って登場する。人間は「人の形をした人でないもの」に恐怖を感じるそうだ。「不気味の谷」を知らない人は検索していただければ概ね納得してもらえると思う。

 子どもを持つ親御さんから怒られそうだが、私は私個人の定義で「子どもは人間ではない」と思っている。誤解のないように付け加えると「まだ」人間ではないのだ。人と触れ合うこと、家庭や学校で教育を受けることなどによって、徐々に善悪を理解し、社会性を身につけ人間に「なっていく」。「オタマジャクシはカエルではない」と言いたいわけだ。

 話を戻すと、子どもは無邪気だが、冷静になって見ると大人にとってある種不気味な存在であると言える。日頃そう感じないのは情愛のなせる技、もしくは自分も通ってきた道だという自覚があるからだ。見た目は「小さな人間」に違いないのに、何を考えているか分からない、明らかに意思も感情も持ちあわせているのに意思疎通が上手くいかない、これから色々なことを詰め込むために頭は空っぽで、時々恐ろしく残酷なことを笑顔でおこなう。もしも、想像を絶するほど愚かな親に育てられたら子どもは一体どうなってしまうのか、などと嫌な想像も膨らむ。

 倫理的な問題は置いておくとして、子どもはホラーにうってつけの存在だといえる。閑話休題

 

  子ども以外の脇役たちにも注目して読んで欲しい。主人公達の知人友人は個性豊かで皆どこかズレている。そのズレを意識し始めると冗長な会話からも目が離せなくなる。

 今年上半期に読んだ小説の中で、この『淵の王』がベストだ。正直、舞城王太郎を見直した。Twitter等で紹介してくれた方々には感謝している。この本の帯に

 

 「舞城史史上最最最最最最最最強長編!」

 

 などという実に頭の悪そうな煽り文が書かれているが、一読すれば「ああ確かに、最最最最最最最最強長編だわ」と別の意味で納得すること請け合いである。

 また本作を読んで気に入った人には早川書房から出ている『想像力の文学』シリーズも試してみて欲しい。近い読後感を味わえる作品が多いと思う。というか本作がこのシリーズから出ていても全く違和感がなかっただろう。

 

 

 随分長いことブログを更新していなかったですが、本自体は結構読めているので今後は読書感想文をちゃんと書いていきたいと思います。せめて月一回は……。