盤上の夜

 

 私は麻雀以外にも将棋やオセロといったボードゲームも時折ネットでプレイするのだが、これがまぁ中々勝てせてもらえない。ボードゲームというのはTVゲームと違って、いくら自分の頭を捻って考え練習したところで、そうメキメキ強くなれるものではない。まずは定跡や定石、戦法という先人達の残してきた足跡を「勉強」してインプットし、実践を積む中でアウトプットを重ねる必要がある。遊びで勝てるものではないわけだ。

 このインプットという作業、そしてその集めたデータから演算して正着手を導くプロセスにおいて、並みの人間はコンピューターにまず敵わない。チェスのグランドマスターIBM社のディープ・ブルーに敗れたのはもう20年近く前の話で、今は人間側がハンデをもらって対局する域にまできている。将棋はチェスより目の数が多く、相手の駒を奪って自軍で使えるという特徴から盤面のパターンが増える(だからと言ってチェスは将棋より簡単というわけではない)ため、まだ完全に人間を下したと言える域には達していないが、これも近い将来敵わなくなるだろうと言われている。羽生さんが言ってるのだから間違いない。

 しかし、それでも人間の脳がコンピューターに勝っている点はある。今年の4月、将棋の電王戦で、阿久津主税八段が何の得もない2八角「成らず」という一手を打ったために、AWAKEがそれを認識できずに敗れたという一件があった。プログラムの外にある出来事に全く対処できないのである。しかし人間は何とかしようとする。

 囲碁のプロが未だにコンピューターに優位に立っているのは、その膨大な局面のパターン(一節によると宇宙の原子の数より多いとか)を処理するアルゴリズムが複雑だということもあるが、プロの脳がその天文学的な数の手をいちいち分析しなくても「感覚的」「経験的」に良手を選べるということにあるそうだ。私は囲碁については全く無知なので詳細は分からないが、麻雀で合理的な正着が分かっていても直感的、経験的、あるいはほとんど根拠のない勘を頼りに敢えてそれを曲げることがある。論理派には敬遠されがちなこの「感覚」という曖昧模糊な選択方法こそ、人間の武器になりえると言えるのではないかと思う。

 また前置きが長くなりそうなのでこの辺にして、本題に。

 

宮内悠介『盤上の夜』 

盤上の夜

盤上の夜

 

 

 本作は盤上卓上ゲームを主題にした6つの話からなる短篇集で、取り扱うゲームはそれぞれ囲碁、チェッカー(簡易版チェスのようなもの)、麻雀、チャトランガ(古代インドのゲーム)、将棋、最後はまた囲碁、となっている。そして宮内悠介はSF作家である。なのでヒカルの碁ハチワンダイバーのような物語を期待してはいけない。

 

 表題作『盤上の夜』は、四肢を失った少女がシックスセンスとも言える独自の「感覚」を頼りにプロの囲碁棋士として活躍した軌跡を追った話で、あの井山裕太をモデルにしたと思われるプロも登場する。他の作品にもそれぞれ独自の感覚や思考法、人生観を持った人物が多く登場する。

 二作目『人間の王』と五作目『千年の虚空』では人間対コンピューターの話、そして両者に「完全解」というキーワードが登場する。完全解が発見されたゲームに、あるいはコンピューターに負ける人間にどのような価値が有るのか。作者もSF作家としてこの話題には思う所があるのだろう。『盤上の夜』『清められた卓』で超人的な感覚を持つプレーヤーについて語っているあたり、やはり人間の感覚にコンピューターにはない可能性を感じているのかもしれない。

 

 私が特に気に入ったのは三作目『清められた卓』と五作目『千年の虚空』だ。

『清められた卓』は主題がまず私の好きな麻雀だということもあるが、その個性あふれる対局者達が良い。牌が透けて見えるかのような打ち回しをする宗教法人の教祖の女、サヴァン症候群を患う超デジタル派の少年、トッププロ、一般人。そして他のゲームを扱う他作品と違って、妙に対局の描写が細かい。(さては宮内悠介、麻雀狂いだな?)何よりも話の展開が熱く、綺麗に伏線を回収してまとまっている。オチも良い。

 囲碁や将棋のプロは、いわば勝ってきた者たちである。むろん読み敗れ、黒星のつくこともあるが、あくまで脳漿を絞り尽くした結果の実力差である。そこには、天災のような敗北感がない。

 麻雀は違う。不運は、どこにでも転がっている。はるかに格下の相手が、配牌の時点で聴牌していることもある。そこに、初巡から振り込むことさえないではない。麻雀のプロは、勝ちを積み重ねた人種ではない。負けて、負けて、ひたすら負けてきた者たちなのである。

 本来、麻雀とは極めて単純なゲームである。そのつど選択するのは、十四枚のうち何を切るかだけ。正答のない場面など、ほとんどありえない。一九八〇年代のコンピューターでさえ、確率的に最強に近いプログラムは組める。

――だが、人が牌を握った瞬間。

 そこに他者の狂気が割り込んでくる。さらには、己れ自身の狂気が混じりあう。

 およそ麻雀における「偏り」のほとんどは、牌の偏りというよりは、人の選択が生む偏りである。 

 といった文章は、麻雀プレーヤーならハッとさせられることだろう。

 

『千年の虚空』は将棋の話で、これまた馴染み深いゲームの話ではあるのだが、それよりも兄弟と義姉間のドロドロした恋愛模様と、全体的に流れる退廃的な空気が堪らない仕上がりになっている。将棋以外の全てを失くした弟と、量子コンピューターで将棋の完全解を発見して終わらせようと目論む兄の、またなんとも切ない話だった。

 他の作品もハズレ無しのクオリティでボードゲーム好きなら自信を持って勧められる一冊だと思う。ゲーム自体を知らなくても問題ない。私は囲碁や将棋についてあまり詳しくないが対局を観るのは好きだ。それは対局者たち、真剣勝負をしている人間の生む空気、しぐさ、投了した時の両者の様子などに不思議な魅力を感じるからだ。

 本作においても対局中、心を引く台詞や心情描写が多い。作者はよほどボードゲームが好きと見える。

 

 本作の作品群に共通しているのは、盤上ゲームを通じて登場人物達が人生に何らかの解を得たり得ようとしたりしていることだ。人生をゲームになぞらえることを嫌う人もいるが、私は真面目な意味でゲーム的に捉えたほうがいい面もあると考えている。

 ゲーム的に考えることとは、遊び半分でやるということではない。社会もゲームのようにルールの中で他者とせめぎ合い、上手くやっていくことが重要なわけで、思考法として取り入れるべきことは多々ある。ゲームというのは主観よりも客観的な視点、目先の利よりも大局観、そして「やりたいこと」よりも「やった方がいいこと」を優先しなければ勝てない。それでもなお「やってて楽しい」のだから、人生をゲームに例えることはそれほど悪くないではないか。(まぁ、ゲーム的に考えられていないから今の現状なわけだけど)

 

 人の考えも世の中もどんどん合理的、効率的になっていくし、この先色んな分野で人間が機械に負けることは間違いない。ただ、それで人間の価値も人生の意味もなくならないし、労働からはきっと解放されないことだろう。結局は人間にしか分からないこと、できないことがある。 

 例えばこの小説は、宮内悠介にしか書けないのだから。